2014年8月10日 「残された水がめ - 第1部」


2014年8月10日の礼拝メッセージはヨハネ4:27-29から「残された水がめ」と題して、第1を話されました。

今回のシリーズはイエスとサマリアの女の物語から語られています。作者ヨハネは、女が自分の水がめを置いて町へ行ったことに注目しました。水がめは生活の中で、人、家畜、野に水をやるために最も重要な道具でした。女はイエスに「あなたは汲むものを持っていない」と言った理由はそれでした。水がめを置いたのはあまりの興奮感でうっかり忘れたのか、水が入った水がめなら10キロの目方があり、急いで町へ行くのが無理なためか、置いて又取りに戻るつもりだったのか、突然、弟子たちが戻り彼らに会うのが恥ずかしかったのか、理由としてこれらが挙げられますがどれも信じがたいです。水がめは井戸から水を汲むために必要ですが、汲みに来なくてもよい永遠の命の水を汲むには必要がなく、もう用がないので置いたのではないかと思います。

ここに、水がめの意義がある。

水がめは、神の命に与ってその命を十分に喜ぶために、持たずに残しておかないといけないものを象徴しています 。誰にでも神の祝福を得るために捨てなければならない「水がめ」があります。「置く」の原語は聖書の中で、離婚、捨てる、離す、神の助けはない、用はない等の意味で訳されています。では聖書が示している「水がめ」は何でしょうか。

①世的な呼び物 (ヘブ。11:24-27;2ペテ1:4)。

②過去に人生を満足させたもの (民11:4-6;出16:3)。

③義務の期間が満ちている活動 (1サム17:20-28)。

上記の聖句を調べて、水がめを置いてからどうなったのか祈りを持ってその霊的な意味と教訓を学びましょう。そして、メッセージをビメオでもう一度聞いて頂くようにおすすめ致します。自分の中に聖霊が示してくださる水がめがあるならば「置いて!!」(次回続く)