2014年6月1日の礼拝メッセージは使徒1:1-12から「なぜ天を見上げて立っている
のですかーイエスの昇天の祝い」と題して話されました。
のですかーイエスの昇天の祝い」と題して話されました。
11節にある「なぜ天を見上げて立っているのか。」という質問ですが、肉体的に何をしているかより、心の中で何を考えているのか、と挑戦しています。
天使の叱責は、イエスが見えなくなったことの驚きで、その催眠のような状態から従順の行為に弟子たちを目ざめさせました。
このメッセージを通して学ぶ教訓は、生活の状況の中で何をすべきかわからない時、既にするように言われたことをすべきである。ということです。
クリスチャンにとって、現在の事において勝利する秘訣は私達の過去にあります。
イエスは弟子たちに、「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」といわれました。彼らは聖霊のバプテスマを受け、イエスご自身が共にいてくださっていることを意識しながら、世界福音宣教に出て行きました。
イエスはなぜ天に帰ったか、今、天で何をしておられるかを、どのぐらい理解しているかは、クリスチャン生活の中で、逆境に対して力をもって勝利するかどうかに、大きく影響します。新約聖書の中に昇天に関する聖句は沢山ありますが、最も多い箇所がヘブル人1-10章です。これ等の箇所では、イエスは王なる偉大な大祭司として示されています。
昇天の目的は5つのものが見られます。
1.贖いの働きの完了を示すために。
2.贖いの証拠として、父の前にいるために。
3.信者のためのとりなしをするために。
4.聖霊の賜物を受け取るために。
5.私たちのために場所を用意するために。
信者が受けるすべての祝福は十字架を通して受けるのですが、その祝福を求め
る場所は十字架ではなく、天にある恵みの御座に座しておられるイエスです(ヘブ4:
14-17)。オリーブ山の上で肉眼から見えなくなったイエスは、信仰の目で、恵みの
御座の上に座しておられる王なる偉大な大祭司イエスとして見られるようになるのです
(使徒7:55-60)。
14-17)。オリーブ山の上で肉眼から見えなくなったイエスは、信仰の目で、恵みの
御座の上に座しておられる王なる偉大な大祭司イエスとして見られるようになるのです
(使徒7:55-60)。
生活に当てはまる教訓は、①イエスの同情は粘り強さを、②イエスの無罪は大胆さを、
③イエスの試みは助けがあることを知るように励む。
この「助け」とは原語では、昔、船が岩に座礁して、壊れ始める時に船に巻きつける綱の呼び名です。このような助けは、私たちが自分で生活に当てはめるべきものです。
救いの最初の祝福を得るのと同じように(マタ11:28-30)憐れみと恵みを探して、それを恵みの御座の上に見つけ出し、取って、生活に当てはめて実行する時、初めて経験します。
これは、「何をするべきかわからない時にするべきことです」。
なぜ天を見上げて立っているのですか。