2014年4月6日 「群衆の中の男」 イースター・シリーズ その4


2014年4月6日の礼拝メッセージはイースターのシリーズの中で、ルカ15:16-21から「群衆の中の男」と題して話されました。イエスの十字架のドラマに巻き込まれ、無理やりイエスの十字架を負わせられたシモンの名前は、永久にイースターのストーリーに固く結びつけられます(15:21)。シモンは、私達がイエスの弟子になるためには、十字架を負わなければならない事を教えています。ローマの兵士に39回むちで打たれ、ひげを抜かれた上、とげのあるいばらの冠をかぶらせられ、血だらけで、イエスは精神的にも肉体的にも弱り果てた状態で、普通の犯罪人としてビア・ドロロソの道を十字架を背負い歩かされました。シモンはエルサレムから1500キロも離れた、北アフリカ河岸にあるクレネの町(現在リビア)の出身のユダヤ人でした。過ぎ越し祭りの祝いのために、エルサレムにやってきたと考えられています。しかし、その日、彼がビア・ドロロサの道にいたのは神の神聖な定めであることに間違いありません。イエスの十字架を負った結果として、その日まで、宗教心がある人だけであったシモンの家族は、後にキリスト者となって、初代教会の発展に加わりました(使徒11:20;13:1;マコ15:21;ロマ16:13)。

では、私達の信仰生活のためにシモンが教えている教訓を学びましょう。

① 私達の信仰の歩みの中に神の定めの時と場所がある。

このような神との打ち合わせによって、私達の人生と、神の国の中での信仰生活に、神のより大きな目的が展開し始めます。しかし、それは、私たちの日常生活における信仰の従順と忠実さによって決定されます。シモンは義務感で祭りに出席しました。私達に置きかえるならば、教会集会の出席、兄弟姉妹たちとの交わり、賛美、いのり、献金、聖書の学び、証、奉仕などのことです。いつどこで神との出会いが起こるかはわかりませんが、それは、神との関係、御国の中で行う奉仕と受ける祝福に関して転機となりうるのです。

② シモンは、キリストの十字架とイースターの意味を求めている全ての者を代表しています。

彼は、イエス様が教えられた真理を示しています。すなわち、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)」と言う真理です。「十字架を負う」とはどう言う意味でしょうか。まず、日常生活の中の困難、人間関係の不幸、仕事、経済、健康の問題などと言う意味ではありません。これらは、クリスチャンでなくても皆が経験することで、これらのものに打ち勝つために、信仰 従順、忍耐、希望によって神の助けを受けるということです。

「十字架を負う」とは、

① 信仰によって、私たちは私たちの救いを確定する十字架上でのキリストの苦しみと一体となること(ガラ2:20;ルカ12:50;マコ10:33-39)。これで救いの経験が始まります。

② 自分を捨てて、日常生活の中でキリストの支配権に降伏すること。「自分を捨てる」ことと「日々自分の十字架を負う」ことは一つです。「捨てる」とは、縁を切る、所有権を放棄すると言う意味(マタ26:69-74)。イエスの生涯の間に、3万人の犯罪人が十字架の死刑を受けたと記録されています。皆は十字架による死の意味を知っていました。「日々自分の十字架を負う」とは自己的、世的、肉的な事より聖書的なことを選ぶと言う意味です(ヘブ12:2;13:12,13;ガラ5:24;6:14;2コリ10:59;ルカ9:57-62)。

③ ただ救われているだけ。から、祝福と喜びと力に満ちているクリスチャン生活を送るために、乗り越えなければならないライン(線)です(ルカ14:27-33)。その日、群衆の中から呼び出された人はシモンでしたが、今日、神はイエスの十字架を負うためにあなたを呼ばれています。