2014年4月13日 「辱めから栄光へ」 イースター・シリーズ その5


2014413日の礼拝メッセージはイースターのシリーズの中で、マタイ272636から「辱めから栄光へ」と題して話されました。

この聖書箇所は、イエス様が死刑の判決が下されて後、すぐに起こったことが記されています。既に死刑の場(ゴルゴタ)に着いて、イエス様が十字架に付けられています。ヨハ1923では「兵士たちはまた(イエスの)下着をも取った 」と言っています。ここにイエスの辱めが見られます。すなわち、キリスト教の画術の絵にあるように、イエスは下帯を付けているのではなく、裸で十字架に付けられたということです。当時のローマは、ユダヤの律法を無視し、犯罪人を裸で十字架に付けて、非難された男の服を受け取る習慣がありました。十字架に付けることは、死刑をする行為だけでなく、犯罪人個人や家族に恥をかかせる方法 でした。

裸と辱めの関わりの例は、創923では;霊的な象徴であり、イザ473;ヘブ6:6に、(恥辱を与えるとは公でさらしものにする、公共不名誉の公開にするという意味です)見られています。中東世界の文化の中で、人を裸にすることは辱める方法の一つでした。 これはイエス様の十字架上の辱めでした(ヘブ122)。十字架は愚か(原語スカンドル破廉恥)でした(1コリ1:23)。裸と辱めの関わりの由来がどこにあるのかがわからなければ、イエスの辱めの意義をわかることができません。(創2:25;3:7-11、21)アダムは命の木で罪を犯し、裸になって、人類に死をもたらした 。イエスが死の木(十字架)で罪を背負い、 裸になって、人類に命をもたらされた 。イエスの辱めは後に栄光に変わります(黙1:12,13)。イエスの辱めは私達の栄光となりました(ヘブ2:10)。

聖書が教える、私達の人生の中の辱めの原因は、罪の自覚、非難の気持ち、他の人に虐待された 、私達の青年の時にしたこと、経済や健康の問題 、離婚や人間関係の精神的外傷 、霊的な問題です。

辱めの結果は、神を見出すことを邪魔する 、神への奉仕に対する妨げ 、喜びを奪われる 、神に対する礼拝を防ぐ 、神から祝福を得るにふさわしくないと感じる 、精神的と肉体的な健康に影響する 、将来に対する期待を鈍らせることです。

ある人は辱めを取り扱う方法として、過食、アルコール、たばこ、ドラッグ、性的行為、怒り 、痛みを鈍らせる活動(音楽、劇、スポーツ、テレビ)、宗教、教会に求める、新しい友人関係を作る、非聖書的なカウンセリングを受けることなどをします。

ダビデは「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光を辱めにするのか(詩4:2)といって、自分の心の泣き声を示しています。答えは?:あなたが、自分自身と状況において、そうすることを許しているまでです。キリストが十字架の上で、私たちの辱めを負われた事を象徴する3つの例を見てみましょう。①よいサマリヤ人(ルカ10:30-35)。② 思いやりの旅行者(エゼキヤ16:1-14。③ 賢明なカウンセラー (黙3:3:17,18)。私達の辱めは神の愛から私たちを切り離すことができません(ロマ8:35)。あなたの辱めの原因はどうであってもそれをイエス様に明け渡して、栄光に進もうではありませんか。