2013年12月29日 「祭りの終わりの大いなる日」


2013年12月29日の礼拝メッセージは、ヨハネ7:37-39から「祭りの終わりの大いなる日」と題して話されました。
イエスが来て、私たちの中に立ち、声をあげていることは、 教会の生活や個人的な生活で、これより 大きな経験はありません。 悲しみや喜び、失敗や成功、絶望や希望、暗闇や光、知られていないことか知って下さっていることかそう言う様々な中で、イエス様は自分のもとに「来て飲みなさい」と私達に呼び掛けて下さっています。

この聖句に記された出来事は、ユダヤ人の仮庵の祭りです。この祭りはユダヤ人がエジプトから出て、40年間、荒野の旅の中、非常事態の中で神の供給と臨在を受けた祝いです(レビ記23章;民数記29章。)ところが、どうして、砂漠、困難、疫病、死に満ちた40年間を祝うでしょうか。それは、それらの状況の中に神が共おられたからです。昼は栄光の雲、夜は栄光の火の柱の下でイスラエルが住んだのは、神の仮庵でした(イザヤ4:5,6)。天にある神のお住まいは仮庵と呼ばれ(2サム22:12;詩篇18:11)、そして、やがて、神は御子として人間の間に自分の栄光を表すようになりました(ヨハ1:14「住む」とは「仮庵」と言う意味です)。
その祭りの最後の八日目に祭司は、シロアムと言う池から水を汲んで来て、宮の中で水がめからその水を注ぐ習慣がありました。それを行っている真っ最中に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。

では、この言葉は聖書の真理と生活に適用することに関して何の意義があるでしょうか。① イエスは宗教的な儀式を自分との出合いに変え、人生を変革する機会を作りました。宮で自分を表されたが、それには3つの段階があります。1.親密(3-13)。これは神の目的を示すタイミングに関係しています。時々、私たちは、神が私達の決めた時と方法で働くようにしてほしいと願うし、神の存在は明らかではないと思えるにしても、いつも神はそこにおられる。2.教え(26-30) 。これは、イエスは誰かと言う事と、地上での彼の使命に関連しています。彼の教えは、神との関係に私たちを導くことに焦点を当てています。彼の言葉は、私たちの霊と魂に命をもたらします。3.声(37)。 これは、彼との関係に入る招きに関連しています。彼の声は私たちの意志と決意に挑戦してます。
②  イエスは聖霊による神聖な力に出合う機会を作りました(37-39)。 シロアムの池からの水は、荒野で神が水を備えた象徴的な儀式でした(出17:6;民20:11;詩78:15,16;105:41)。これらの聖句は主に、罪人がキリストへ改心する経験を意味しています(1コリ10:1-4)。イエスは引用した聖句がイザヤ12:1-3だと考えられていますが、調べますと「救いの井戸から水を汲む」とは、既にある感謝、信頼、賛美、喜びがある主との密接な関係に入って後にする行動ですので、救われて後の経験を意味しています。ヨハ4:14と7:38を結ぶと、「戸」で始まった救いの経験は「湧き出る水(噴水)」すなわち、クリスチャン生活の喜びになって、ついに、聖霊によって、信者の内から出る命をもたらす川となります。キリストに対する信仰によって、私の内に入るものは、聖霊の力によって、私たちから効果的な信仰生活の形で流れ出るべきです。

③  イエスは聖霊に対する渇きに挑戦するのです。イエスは自分との関係や言葉に対する従順は問われません。むしろ、聖霊に対する渇きを持っているかどうか聞いているのです。クリスチャン生活と主への奉仕は天的な能力ではなく、聖霊との密接な関係による超自然的な能力から出るべきです。 そうでなければ、その奉仕、賛美、礼拝は、「やかましいどらや、うるさいシンバルにすぎないもの」(1コリ13:1)です。この2013年の最後メッセージという「祭りがもっとも盛大に祝われる終わりの日」に、「乾いている人はだれでも、わたしのところに 来て飲みなさい」というイエスのお招きに応答しませんか。そうすれば、「一年の計は元旦にあり」ではなくて、来年度のあなたに対する神の計画は今年の最後に日にあることを見出すかもしれません。