イエス.キリストが流された「血の効き目」と「主の食卓、聖餐」との関係を見ていきましょう。
聖書の何箇所かに、キリストが実際に血を流されたと言う記述がある。
①ゲッセマネの園で力を込めて一生懸命祈られたので、汗が血に変わってしまった(ルカ22:44)。
②裁判を受けた時、兵士が10cmはあろうと思われるトゲのあるイバラで冠を作り、それをイエスの頭に押し込んでかぶらせたので、血が流れ落ちた(マタイ27:29)。
③獅子が捕らえた獲物を引き裂くように、手足の肉が裂かれ十字架上に釘付けにされた(詩篇22:16)。
④最後は、槍で脇腹を刺し通され血と水が流れ出た(ヨハネ19:34)
イエスが流されたこのような血が、私たちにどのように働くのでしょうか。
(1)キリストのいけにえに預かる者とせられる(Iコリント10:18)
聖餐の祝福を受けられるように、杯を頂く時に祈り、飲む時に祝福を受ける。2000年前、そこにいたかのように、今まさに流れつつあるその血潮に預かる。コリントの町は、偶像に満ちた町だった。救われたクリスチャンでも悪霊、悪い習慣、或いは試練によって、今までの状態から抜け出せないクリスチャンも大勢いた。尊いキリストの血によって救われ、祝福と恵みを受けたのだから、悪しき習慣や以前の生活をきっぱり断ち切っていかなければならない。聖餐式は、イエスが主人で、私達を尊い血に預かるように招いて下さり、それを受け入れることによって、イエスと一体となるのである。
(2)心の故郷に帰るようになる(エペソ2:13)
遠く離れた者だったのが、キリストの血によって近い者とされた。放蕩息子は、遠い国で放蕩三昧の生活を送っていたが、何もかも失った時にまず思ったことは、父の家、父の愛だった。私達も神から遠く離れ、罪の中で希望もなく、良き約束もない者だったが、神に応答し、キリストの血によって神に近い者とされ、それを喜ぶものとなった。
(3)神に仕える者とせられる(ヘブル9:14)
キリストの血は、良心を清め、生ける神に仕える者とする。キリストの血と言葉の力を合わせて、命のない死んだ行いから離れるように努力する。仕えるとは、まず神を喜ばす生活をすることである。それから福音を伝えたり、教会で奉仕などをして仕える。
(4)生活に影響を与える(Iペテロ1:2)
キリストの血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々は、生活の中に祝福が行き渡り、日々の生活に影響を与える。祭壇で動物のいけにえを捧げていた頃、祭司はいけにえの血の一部を取り、捧げた人にも注いでいた。それ由、祝福は戻って来、受けた祝福に家族も預かることになり、祝福の生活を送ることが出来る。
(5)清い生活をするための動機を与える(Iペテロ1:18,19)
贖い出されたのは、金銀にはよらず、キリストの尊い血によったのである。キリストを知る前は、空しい生活だったがそこから救われたのは、金銀(物質的なもの)によったのではない。
(6)救われた後に犯した罪を許し清める(Iヨハネ1:7)
救われた後も不信仰、不従順のために罪を犯してしまう。それを許すのは、キリストの血である。しかし互いに教会生活をい営むと言う条件がある。教会生活の中にキリストがおられ、そこで許しが行われていく。
(7)悪魔に打ち勝つ力を与える(黙示12:11)
子羊の地のゆえに、巨大な竜、蛇と言われる悪魔サタンに打ち勝つ。全身全霊、100%自分自身を捧げていくことによって、打ち勝つことが出来る。
主の食卓、聖餐はキリストの血に預かることである。(Iコリント10:16)。しかしながら、自分をよく吟味して飲み食いをしないと弱くなったり、病気になったり、死んだりと恐ろしい結果を招くことになりかねない。(Iコリント11:24~30)
聖書の何箇所かに、キリストが実際に血を流されたと言う記述がある。
①ゲッセマネの園で力を込めて一生懸命祈られたので、汗が血に変わってしまった(ルカ22:44)。
②裁判を受けた時、兵士が10cmはあろうと思われるトゲのあるイバラで冠を作り、それをイエスの頭に押し込んでかぶらせたので、血が流れ落ちた(マタイ27:29)。
③獅子が捕らえた獲物を引き裂くように、手足の肉が裂かれ十字架上に釘付けにされた(詩篇22:16)。
④最後は、槍で脇腹を刺し通され血と水が流れ出た(ヨハネ19:34)
イエスが流されたこのような血が、私たちにどのように働くのでしょうか。
(1)キリストのいけにえに預かる者とせられる(Iコリント10:18)
聖餐の祝福を受けられるように、杯を頂く時に祈り、飲む時に祝福を受ける。2000年前、そこにいたかのように、今まさに流れつつあるその血潮に預かる。コリントの町は、偶像に満ちた町だった。救われたクリスチャンでも悪霊、悪い習慣、或いは試練によって、今までの状態から抜け出せないクリスチャンも大勢いた。尊いキリストの血によって救われ、祝福と恵みを受けたのだから、悪しき習慣や以前の生活をきっぱり断ち切っていかなければならない。聖餐式は、イエスが主人で、私達を尊い血に預かるように招いて下さり、それを受け入れることによって、イエスと一体となるのである。
(2)心の故郷に帰るようになる(エペソ2:13)
遠く離れた者だったのが、キリストの血によって近い者とされた。放蕩息子は、遠い国で放蕩三昧の生活を送っていたが、何もかも失った時にまず思ったことは、父の家、父の愛だった。私達も神から遠く離れ、罪の中で希望もなく、良き約束もない者だったが、神に応答し、キリストの血によって神に近い者とされ、それを喜ぶものとなった。
(3)神に仕える者とせられる(ヘブル9:14)
キリストの血は、良心を清め、生ける神に仕える者とする。キリストの血と言葉の力を合わせて、命のない死んだ行いから離れるように努力する。仕えるとは、まず神を喜ばす生活をすることである。それから福音を伝えたり、教会で奉仕などをして仕える。
(4)生活に影響を与える(Iペテロ1:2)
キリストの血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々は、生活の中に祝福が行き渡り、日々の生活に影響を与える。祭壇で動物のいけにえを捧げていた頃、祭司はいけにえの血の一部を取り、捧げた人にも注いでいた。それ由、祝福は戻って来、受けた祝福に家族も預かることになり、祝福の生活を送ることが出来る。
(5)清い生活をするための動機を与える(Iペテロ1:18,19)
贖い出されたのは、金銀にはよらず、キリストの尊い血によったのである。キリストを知る前は、空しい生活だったがそこから救われたのは、金銀(物質的なもの)によったのではない。
(6)救われた後に犯した罪を許し清める(Iヨハネ1:7)
救われた後も不信仰、不従順のために罪を犯してしまう。それを許すのは、キリストの血である。しかし互いに教会生活をい営むと言う条件がある。教会生活の中にキリストがおられ、そこで許しが行われていく。
(7)悪魔に打ち勝つ力を与える(黙示12:11)
子羊の地のゆえに、巨大な竜、蛇と言われる悪魔サタンに打ち勝つ。全身全霊、100%自分自身を捧げていくことによって、打ち勝つことが出来る。
主の食卓、聖餐はキリストの血に預かることである。(Iコリント10:16)。しかしながら、自分をよく吟味して飲み食いをしないと弱くなったり、病気になったり、死んだりと恐ろしい結果を招くことになりかねない。(Iコリント11:24~30)