2012年8月26日の礼拝メッセージは、前回の「植えつけられた言葉」と言う主題の第2部として、ヘブル4:1、2から「結びつけられた言葉」と題して話されました。
この言葉の中に、神の言葉による力を経験できる原理を見ることができます。それは、御言葉を聞くだけでは十分ではなく、その御言葉を受けるためには、信仰を持つ必要があるということです。結びつけると言う言葉には、二つの異なった者が一つの体となると言う意味があります。益になると言う言葉には、もう一つの物体を生み出すために助ける、役に立つ、有益であると言う意味があります。この言葉と信仰を結び付ける為に
「混ぜ合わせる」と言う作用が、まず、信者の内部に起り、その後、生活の状況に変化をもたらすようになります。
この真理は、旧約聖書の中に書かれたイスラエル民族の歴史に起こった、エジプトからの解放とそれに続く40年間の荒野での旅の記録に基づいています(参考 ヘブル3章、民14:22-26;詩106:19-26;1コリ10:5-11;ユダ1:5)。
信仰は、神の力、知恵、善に全く信頼して、自分をゆだねると言う意味です。神は自分の意志でご自身のみが働かれる時と人間と協力して働かれる時がありますが、神の言葉の成就を妨げるものは何一つありません。
ところが、人間の中に、また、人間を通して働く時に、御言葉を成就させるために、その人に信仰が要求されるのです。信仰がなければ御言葉は何の助けにもなりませんし、御言葉自体も力があって働ける状態で残っていることもありません。私たちの不信仰は御言葉に対して、ネガティブな影響を及ぼし、成功する可能性がなくなる言うことを意味しています。
信じる私たちは安息(祝福)に入るのです(ヘブ4:3)。祝福と言うことは神の御手の中から差し伸べられているものですが、私たちはその祝福を得るために、その手を迎えに出て行き、同時に神の手の中に入って行かなければなりません。祝福と言うことは物理的な事より、むしろ神との関わりのことを意味します。これは信仰と言う行動です。
あなたはその祝福に入っていますか。先週のメッセージから言葉と信仰を結び付ける方法を学びましょう。
(このことについての聖句は別の用紙に載せて有ります)。
口に出す信仰の告白
「私が何者であるかは 聖書が言っている通りの者です。
私に何ができるかは 聖書が言っている通りのことができるのです 」アーメン