2012年8月12日 「聖なる生活へ招かれた」


2012812日の礼拝メッセージは1ペテロ114-25から「聖なる生活へ招かれた」と題して話されました。「聖」とは何かということを信仰の経験から言えば、神の性質を持ち、神の性格を育てて、神の命を示しているということです。神の性質を持つことは、人の内に与えられた神の賜物です。神の性格を育てることは、人の活動として与えられた神にかなった特徴を養うことです。神の命を示すことは、人に与えられた使命です。エペソ4242コリ71;ロマ1212の聖句は「聖」のこれらの3つの面を語っています。ペテロは自分の第1の手紙の1章の結論として、福音について語っていると記しました(25)。1章の主題は16節にある「聖」です。そしてこれを信仰の経験の4つの点に適用しています。①神なき生活(14-18)。これに関して次のことを語っています。神を知る前から世的な影響を受けて、生活が空しくなっている状況。その生活は神の裁きを引き続き受けています。信者は敬いながら神を恐れるべきです。②救いの手段(18-21)。これに関して次のことを語っています。救いは贖いの代価を払う規則によるものです。すなわちそれは、負債を返すために物や人で払い、後にその物と人の代価を払うことによってそれらを取り戻すことができるということです。キリストによる贖いの代価が何より尊いものです。キリストが人間となられた神であるから代価を払う能力を持っておられます。キリストが自分の生涯、死、復活と昇天を通して救いの働きを完了されました。③救いの経験(21-25)。神ご自身がなすべきことを終えてから人にあることを要求しました。それは信仰と従順、そして、自分の内にある聖霊の働きと協力し(22節、異本に「聖霊を通して」と追加)、新生を生じさせる言葉を実行することです。この「言葉」とは、キリストご自身のことと神の語られた言葉です。言葉は「種」と例えられています。「種」は原語では植物の胞子という意味です。胞子の中に次の世代の幼芽があります。また「種」は精子という意味です。精子には種類にしたがって子孫を発生させる力があります。「種」という語のこれらの二つの意味をもって、神は御言葉を通して私たちのうちに働いてくださるのです。この「種」は信者の中の聖霊による神の活動力です。この「種」が私たちの中に「聖」を発生させて、聖なる生活を可能にするのです。