2012年7月1日の礼拝メッセージは「独房からの説教」シリーズで、マタイ11:1-12から「期待を満足させる方」と題して話されました。このシリーズでは、旧・新約聖書に記録のある牢屋に入れられた信仰者たちからの教訓を学んでいます。今回はバプテスマのヨハネを考えます。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」というヨハネの質問はキリスト教の中心的な真理と関係しています。イエスが自分の断言している者でなければキリスト教が偽宗教となり、私たちの信仰も無駄になります。ヨハネが受けた知らせを通して、旧約聖書の中で預言されたメシヤという救い主の到来に対する期待の炎が再び燃え上がらされました。ヨハネの生活と言葉は一方では信じられましたが、他方の宗教家の間では受け入れられなかったので投獄されることになりました。ここに学ぶべき教訓が見られます。それは、イエスはすべての期待を満足させてくださる方ということです。第一に学ぶ教訓は、イエスは預言されたメシヤという救い主であるということです(2-6節)。奇跡はイエスの身分を確証しています。(ルカ4:18、19;使徒2:21、22)。ヨハネは既に受けた以上の証明は何も与えられませんでした。イエスは注意と祝福の言葉を与えました(6節)。躓くとは、疑う、否定するという意味です(1ペテ2:7、8;イザ8:14、15;ロマ8:33;1コリ1:22-24参考)。キリストに自分を明け渡して神の言葉に従うなら、キリストに対する期待は満足させられます。第二に学ぶ教訓は、地上での最大の物は神の国だということです(7-12節)。神の国は一生懸命に求めることだけによって見つかります。荒野へ風に揺れるあしを見に行くことと、宮殿で柔らかい服を着るということは、福音と神の言葉に対しての無関心を意味しています。逆に、激しく攻める心を持つ者なら神の国に入ることになります。激しく攻めるという言葉は、夜通し狭い檻の中に閉じ込められた後、露が降り甘い香りがする草の匂いを嗅いだ羊が、檻の扉が開いた途端、飛び跳ねたり暴れたり、ぶつかり合ったりして、牧場に走り出ていくイメージを描いています(ミカ2:12、13;マタ7:13、14)。第三に学ぶ教訓は、神の国の中にいる者は何より偉大だということです(11節)。ヨハネより偉大であるというのは、彼が知らなかったイエスの十字架、復活、聖霊降臨、教会、そしてキリストによる新契約を経験しているという意味です。神の国に入るなら、これらのものに対して期待は満足させられます。獄中のバプテスマのヨハネが真理を求めている者の型です。人生には閉じこめられた状況に陥る時があります。その時に「神は何処、キリストは誰、信仰は何」というような疑いを持つでしょう。その時にイエスが行った働きと奇跡、そして過去のイエスと自己の体験を思い起こしてください。そうすれば期待の炎が再び燃え上がらされて、真理を求める期待が満足させられるようになります。躓かない者は幸いです。イエスが本当に期待を満足させてくださる方なのです。