2012年1月1日 「献身することの必要性」
2012年1月1日のメッセージは使徒2:41-47から「献身することの必要性」と題して話されました。テキスト中の「~していた」という表現は連続時制動詞で、生活上の習慣を示しています(ルカ24:53参)。この習慣は神に対する献身を例証しています。この献身は、まず主に(使徒5:14)、そして教会に(使徒2:47)ということでした。初代教会の活動は全ての時代における教会活動の規範です。教会活動にどの程度携わっているかによって、私達の主に対する献身がどの程度のものであるか分かります。使徒2:41-47から言えば、教会活動は、世における福音宣教とそれに対する悔い改めと信仰の応答によって教会に加えられることから始まります。信者と教会生活の活躍の舞台には三つあります。第一の舞台は「宮」、すなわち合同集会です。その合同集会の内容には御言葉の学び、信仰を強化する霊的な交わり、主の食卓、そして祈りがあります。この「祈り」とは「礼拝」という意味で、神の臨在に対する恐れ(敬う)、御霊の賜物を用いて神を称えることです。このような「祈り」は「主に仕える」ことです。第二の舞台は「家々」です。そこでの活躍は少数による交わりを通して、皆が仲良くなり、日常生活の交流をし、具体的にお互いのニーズに応える形でなされます。また、少人数で聖餐も行います。第三の舞台は、社会の中で模範的な市民として生きながら、キリストを証することです。キリスト教辞典によると、聖書における献身とは「神の召命に応えて、神の御心のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身をささげること」と定義されています。特徴としては、誰かを助けるために大きな犠牲を払うこと以上に、神の召命に応えるという点に強調点が置かれています。この献身は「伝道献身」と「一般献身」に分けることができ、「伝道献身」は何かの職業、立場から離れて、伝道者として神の家である教会と御言葉への奉仕にその生涯を捧げることです。また「一般献身」は、直接そのような働きに携わらないとしても、今自分が置かれている場にあって、神の御心に生きるべく、その身をささげることです(引用終)。日本語のある辞書には「献身する」の例として「自らの属する集団に自発的に献身する「集団主義」が、日本人同士のつながり方を特徴づける」とありますが、この「集団主義」の例はキリスト信者と教会のあるべき姿にぴったり合っています。イザヤ書6:1-8では献身の動力を見ることができます。①神の聖さを拝見すること(1-4)。②神による聖別する油注ぎを頂くこと(5-7)。③神の召命に応えて献身すること(8)。「私たちの期待以上に、神の御心に従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました」(2コリ8:5)。この一年間に、今まで以上に、まず主に、そして教会生活と活動に、また、自分自身の信仰生活の成長に全力を尽くして献身しましょう。