2011年8月7日 「救いの井戸」 「神の井戸」シリーズ10

2011年8月7日の礼拝メッセージは、「神の井戸」シリーズから「救いの井戸」と題して、イザヤ12:1-6から話されました。救いは、聖書全体のテーマです。救いの特質は神の特性に関わっているので、救いを受けられるに、神との関係に入っていなければならないと言うのは当たり前です。そして。救いそのものは、生活上もっとも必要な水に例えられるているはずです。中心的な聖句は1:3です。ここでは、井戸は救い、井戸の中の水は救いの数々の祝福で、汲む物は喜びです。イスラエル人は、罪きよめて頂くために、バビロンに奴隷として連れて行かれました。70年後、ユダヤに戻り、故郷で再び、神と交わりを経験することができました。これはこの言葉の意味です。ここに、救いは神の怒りはなだめられたことを、私たち個人には、慰められることを意味します。そして新生し、神との親しい関係に入り、恐怖は去り、信頼、力、喜びなどを知るようになります。その新生を支えるものは、救いの井戸の中の水です。その水をくみ上げる手段は喜びです。しかしこの喜びはただの感情ではありません。口に出す賛美の事で、礼拝を通して表現するものです。それでは、救いの井戸と別の井戸を比較してみましょう。神の命が流れているエバグリーヌの信仰生活(イザ1:30;詩篇1:3)は、奉仕を支える神の助け(イザ44:12)がある、主と交わり、信仰の歩みが力付けられる(イザ40:28-31)。別の井戸は、真の信仰を飽きて、ただの宗教に頼る(エレミ2:13)。子孫に信仰の遺産を残さない(エレミ14:3)。不信仰の教師を頼みにする(2ペテ2:7)ことです。 次に、水を汲む物を持っているかどうかです(ヨハ4:11)。水を汲むものは、喜びですが、この喜びはラプソディ、熱狂的な表現、大歓喜のことです。救いを感謝する者は、口に出す賛美を持って神の御名を褒め称える。神の御名を口に出す賛美を持って褒め称えない者は、救いを感謝していない。あなた方は、ラブソディーを持って、救いの井戸から水を汲んでいますか。