2011年8月14日の礼拝メッセージは、「神の井戸シリーズ」として、雅歌4:12-16から「閉じた源、封じた泉」と題して話されました。雅歌の書は、比喩的な言葉で書かれています。多くの注解者の考えでは、雅歌はキリストと花嫁なる教会のたとえであると言う事です。したがって、一人ひとりの信者のことがたとえられているのです。今日の礼拝は、礼拝集会の中に「主に仕える」という活動を取り入れて、一年が経った記念のものです。「主に仕える」とは、エゼキエル書44:10-16と、使徒13:1, 2を基本に新約教会の礼拝集会の中の内容を示す、1コリ12-14章にある聖霊の賜物、特に声であらわす賜物、すなわち、異言、異言の解き明かし、預言 、霊の歌を伴い、口に出す賛美を持って、自主的に神を褒め称え、高め、崇めることです。聖霊によるバプテスマを受けていなければ、「主に仕える」礼拝は出来ない。聖霊によるバプテスマを受けているなら、「主に仕える」礼拝をしているはずです。ではなぜしていないのでしょうか。先週の話から言えば、感謝が足りないと言うことで、今日の話から言えば、神の祝福を解き放っていないからです。4:12は、庭、源、泉を例にして、神の祝福を自分の内に閉じ込めてしまっていると教えられています。閉じた庭の「閉じる」は、閂(かんぬき)という意味、閉じた源の「閉じる」とは、鉄の棒を意味する、封じた泉の「封じる」とは、封鎖(バリケード)すると言う意味です。これらの言葉からは、自宅監禁されて、家に閉じ困っているようなイメージが与えられます。分解してみますと、12節は、残念そうなネガティブな状況、13,14節は、与えられた祝福(2コリ9:8、エペソ1:3,2ペテ1:11、ガラ5:22)、15節は、その祝福が生じた影響(イザ12:3、 詩46:4、ヨハ4:14)、15節の前半は変化を起こすために、新しく影響を与えるものを呼び求めること。目的に注目(2コリ2:14,15、ピリ4:18 、ヨハ12:3)。風は聖書の中ではよく聖霊を象徴しています。(エゼ37:3,6,10、ヨハ20:22、使徒2:2-4)。16節の後半は、聖霊の力によって起こった結果。すなわち、主と新しい関係の中に入り(4:16)、友(教会の兄弟姉妹たち)と一緒の祝いをし(5:1)、主の仕事に預かる(7:10-13)。神の与える祝福は閉じた源と封じた泉のように、自分の内に閉じ込めるものではなく、広く放つためのものです。その始まりは、礼拝の中で「主に仕える」という活動ではないでしょうか。