2011年の6月26日 「期待の井戸」「神の井戸」シリーズ4
2011年の6月26日の礼拝メッセージは、「神の井戸」シリーズから「期待の井戸」と題して、創世記24:1-14の箇所から話されました。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています」(13)は中心的な言葉です。無名の井戸ですから、この言葉は神の約束の言葉に対して、心の態度を示しています。要するに期待です。最も単純に考えればこのストーリーの内容は、アブラハムのしもべエリエゼルがイサクのために伴侶を求めに行くことだけですが、もっと大きことに及ぶのです。すなわち、リベカとイサクを通して生れるイスラエルの王国です(60)。そして、後に救い主イエスキリストが、その系図の子孫としてお生まれになります。要するに私たちの救いと信仰による祝福の秘訣が、このストーリーに秘められています。その秘訣は、期待があなたの人生に神の祝福を解き放す鍵だと言うことです。「敵の門を勝ち取る」(60)と言う言葉は、勢力と権威をもって町の生活の全体を支配すると言う意味です。これを私たちの信仰生活に当てはめると、キリストを信じる信仰によって天国の力が、生活の中に解き放たれるようになることです(マタ16:18、19)。期待と言うのは「ただ良いことが起こるといいですね」と考えるようなことではなく、むしろ、よいことが必ず起こると確信を持つことです。その確信は神の約束に基づいています(1コリン9:10;ロマ8:25)。期待は人生に、神の力と権威を解き放す鍵です。このストーリーに期待の意味を示す3つの重大な言葉あります。①「定め」(1-14,44 )。神の祝福を期待することは、人生の事がらを神の定められたものだと知ることです。 神の「定め」は、契約によるもの、超自然的に導かれること、神の富と資源を受けることで、いつも神を礼拝することを通して確信するようになるのです。②「成功」(15-27)。神の祝福を期待するとは 神が与えられることが成功すると予想する事です。期待を持つ者は成功するために、正しい場所に立っていなければなりません(27、48);人に祝福が与えられる(22、30、53);神を礼拝する(26、27、52)。神の与える祝福は、自分のあわれみ(当たわざる者に祝福が与えられる)と神の真実が一体化されたものです。③「勝ち取る」(50-61)。神の祝福を期待するとやがて、その祝福を受けることが出来る。勝ち取るの別の意味は所有すると言うことです。勝ち取る、所有するとは、直ちに行動することによるものです。先延ばしは、一番恐ろしい敵です。勝ち取る、所有するとは、神聖な定めに服従する、ゆだねることの後に必ずついて来る。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。」神の祝福を解き放つ期待と言う鍵は、どこに立っているかということだけではなく、どのような心を持って立っているかということです。神に対して大きな期待を持って天国の神の力と権威を解き放す鍵を手にしましょう。