2011年5月15日の礼拝メッセージは、先週のメッセージ「突き破る神」の続きで、マルコ2:1-5から「押し破る信仰」と題して話されました。
2章4節を中心に、押し破る信仰は、 神から祝福を得るために必要であるのみならず、神の心に触れて、親しい関係の中で礼拝するためにも必要です 。「押し破る信仰」は驚くべき信仰です。私にはできないことを、神様は代わってしてくださるけれども、 私が出来ることを神が代わってなさることは、決してありません。旧約による「押し破る信仰」の原理が出エジプト記19章に見られます。神を迎えるために、イスラエルは山のふもとに立ち、神が彼らに臨まれた。ところが山は「立ち入り禁止」でした。それは、旧約では律法と罪の故に神を見れず、登るのも赦されませんでした(19:21、24)。 ところが、新約によれば、イエスの十字架と恵みによって、立ち入ることができるようになりました(ロマ5:2;エペ3:12)。新約による押し破る原理は、ヘブ3:17から4:1に見られます。
イスラエルの民は、安息の地、カナンと言う国に不信仰の故に入ることができませんでした。
詩篇95章によるとこの安息は、神との親しい関係の中で神を礼拝し、祝福された生活を意味します。マルコの中の中風の人の物語をよく調べたら、「みもとに」いることと「イエスに近づくこと」とは違います。イエスと中風の人の間には、邪魔物の群衆があった。その群集を打ち破るために「押し破る信仰」を働かせて屋根をはがし、穴をあけた。多くの人は、イエスのおられる戸口の所までは来ますが、あきらめて祝福を得ずに帰ってしまいます。「押し破る信仰」を持っていないからです。では、「押し破る信仰」の力は何か、中風の人の物語から学びましょう。① 大きい望みを持つこと。② 強く決心をすること。③ 同じ目的に信仰を合わせて協力すること。④ 独創性を生かすこと。⑤ 月並みではない手段を用いること。詩篇27章は信仰によって押し破った者の生活を語っています。「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。―― 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(27:13)。上記の「押し破る信仰」の力の例、出19章、ヘブ3,4章マコ2章をまとめて示す聖句はマタイ11:12です。ここに激しく責めると言う言葉はそれです。キリストによる救いの祝福、聖霊が与える祝福を激しく求め押し破れ!!