2011年1月23日「救いに基礎」シリーズ「洗礼」

2011年1月23日の礼拝メッセージは救いの基礎シリースとしてロマ6:1-7から「洗礼」と題して話されました。洗礼は 信者の人生の中で最も力強い経験の一つです。洗礼は 神の重大な祝福を受けるようにします 。洗礼を通して 過去を見ているだけではなく、将来に目を向けるようになります 。主張する経験が真理の上に基づいていないなら その経験は無効です。そして、その経験による目的に到達できないようになります。 「洗う」とは洗礼の聖書的意味を限っています。 ある訳ではギリシャ語の「バプテスマ」をそのままで使っています。「バプテスマ」とは、浸す、しみ込む、浴びる、染めると言う意味です。 沈没した船は、水の中に、水が船の中にあるように、バプテスマを授けられた信者がその祝福と一つになります。バプテスマはキリスト教に唯一ではありません。残念ながらある教会では非キリスト教的行為を取り入れて、バプテスマを教会の会員式にしています。聖書ではそうする理由がありません。ここで、バプテスマについて4つのことを考えましょう。① 福音宣教とバプテスマ。(マタ28:18-20;マコ16:15、16)。ここにある救いとは、救いの完備、過去(救われた)、現在(救われつつある)、未来(救われます)を意味しています。何々から救われて、何々へと救われています。②イエスが受けられたバプテスマ。(マタ3:13ー17)。義に関するバプテスマです。イエスを義にしたのではなく、それを発表しました。バプテスマを通して悔い改めと信仰によって今、わたしは義になったことを発表する。③ バプテスマの例。1.エチオピヤ人の宦官(使8:35-38)。バプテスマを受ける条件はその先の信仰です(異訳)。2.コルネリヤ家(使10:44-48)。救いに伴う聖霊によるバプテスマを受けたとしても、水によるバプテスマを受けなければなりません。④ 信者の生活におけるバプテスマの意義(ロマ6章)。5章では、悔い改めてと神の恵みの賜物なるキリストを信じることによって罪と義の問題は解決されています。そこで、信者がバプテスマを受ける。6章では、そのバプテスマの意義と意味を語っています。キリストの死に葬られて過去の自分が「終」になりました。キリストの死と復活に埋められて(原語)新生に生かされる。そして、自分を神ご自身と権威にささげ、聖潔に進む。バプテスマを受けないでは、神の自分に対する御心を拒む(別約で目的を妨げるルカ7:30)。