2010年10月10日 「神の国の観点から生活事情を見ること」

2010年10月10日の礼拝メッセージはマタイ11:1-15から「神の国の観点から生活事情を見ること」と題して話されました。多くのクリスチャンは神様が自分の生活事情に知らん顔をしていらっしゃるように見えることや祈りが自分の思うとおりに答えられないことを悩んでいます。神様は奇跡を行って、事情を変えることのできる方でありますが、もっとも大きい祝福は自分の生活事情を神の国の視点、神のもっと大きい計画の見かたによって与えられるのです。イエスはヨハネの疑いに答えをしなかったように見えますが、実は、ヨハネに自分の生活事情を神の国の観点から見させようとされました。私たちが学ぶ教訓は、① 自分の誕生は偶然ではないこと(ルカ1:1-80;マラキ書3:1)。私たちの誕生はヨハネの誕生と同様に奇跡ではないことないのです(エレ1:5;詩22:9,10; 71:6,7; 139:13,14組立てると編み物と言う意味)。② 自分に対して神の評価を受けること(マタ1:11)。ヨハネは与えられた使命を立派に成功させました(ルカ1:15、76-80;3:1-18)。ところがあっという間に砂漠から獄に進行して、自分とイエスに対して疑いを持つようになってしまいました。時々、自分の存在の意義と神の国の目的を正しく見るように、悲惨な状態の中に落ち込まないといけない必要があります。そのような時に、自分は失格者ではないと信じなければなりません。③人に拒絶された者は神に受け入れられること(マタ11:4,5)。盲人、足なえ、ライ病人、つんぼの人は当時の時代の社会の中でさげすまれた人でした。神の国の中ではこの人たちが受け入れられるのです。欠点が多く、用の無い、世に見捨てられたこのような人々はイエスの時代(家族)のものです(イザ53:3)。④死んだ者は命を持っていること(マタ11:5)。イエスの復活は信者の復活の保証です(ヨハ11:25,26)。「ある日、新聞の中に私の死亡報告を読むでしょう。しかし、それを信じないでください。その時、私は今よりもっと生きるようになっているのです」D.L.MOODY。⑤ この世の貧しい者は神の国の中で富む者になっています(マタ11:5)。その富は福音による富です。罪の許し、信仰、愛、平安、喜び、希望のことです(2コリ8:9;ヤコ5:8)。自分の生活事情を神の国の観点から見るためにイエスご自身を「飛び石」にするかどか決心する。そうしないとイエスが「躓き石」となるのです(マタ11:6;ローマ9:33;1コリ1:23;1ペテ2:8;1ヨハ2:10)。