2010年9月19日 「主を待ち望む者の祝福」
2010年9月19日の礼拝メッセージはイザヤ30:15-26と40:27-31から「主を待ち望む者の祝福」と題して話されました。マタイ5:1,2「山上の説教」にイエス様は群衆を見て高い山に上って、おすわりになると弟子たちが御元に来たと書いてあります。イエス様が誰に何ができるか知っていながら、この説に見えるイエス様は違う行動をとっており、群衆のニーヅを無視しているようです。お座りなるとは、ただ体の姿勢だけではなく、体、心、霊が落ち着いている態度と状態を示しています。イエス様はよく御父に祈るために山に登られました。そうしてから、最も親しい友、弟子たちと従事しました。弟子たちはイエスが上られたおなじ山に登り、御元に来ました。私たちの礼拝は、生活事情がその礼拝に対する態度を決めるか、または、礼拝が生活事情に対する態度を決めるかどちらでしょうか。主を待ち望むことは時間的なことではなく心の態度のことです。「主に仕える」ことです。イザヤ30:15-26に信仰生活を描いています。神の御前に確信を持ってこないなら、ついに生活事情が恐ろしい鬼のように見えるようになって、逃げることを決心します。ところが鬼が追ってきます。霊界において神が恵もうと待って、自分を待ち望む(神の尊厳と親密さを口に出してたたえる)ように御ことばを教える教師を通して声を呼び掛けてくださる。不聖のものを憎む強烈な態度を取れば思いがけないところから(主を待ち望む山と天、不自然的なところ)祝福が与えられます。イザヤ40:27-31に主の臨在を慕い求める者の熱情を見ています。神が私たちの事情に下りてくるように願いますが、神は私たちに自分の臨在の清い空気に上るように待っておられます。もしイザヤ30章に神がわたしたちのために超自然的に働いている姿を見ているなら40章に神はわたしたちが自分でなすべきことをするために力を与えてくださっている姿を見ることができます。主を待ち望む者になりましょう。