2009年11月22日 「給料の清らかさ」 神の国と富シリーズ その5
2009年11月22日のメッセージは「神の国と富」シリーズとして、出12:21-36から「給料の清らかさ」と題して話されました。救いによる神の祝福はクリスチャンが楽な生活ができるとともに、世界にある教会の働きを祝福できるほどに豊かであると信じています。神様は怠けることを祝福されないけれども、私たちの手の技を祝福してくださいます(ヨブ1:10)。わたくしたちの多くの人にとって、それはノンクリスチャンの雇い人から受ける給料として入ってくるのでしょう。したがって、給料を神聖なものとして考えるべきです。出12:35、36に「イスラエル人はエジプトからはぎ取った」新共同訳で、エジプト人の物を多くの分捕り物とした。1,2章を見ますと400年間の奴隷生活はどんなにかつらかったかが分かります。そして、その間に不当に扱われ、貧乏に支配されました。この時の事情と解放は前もってアブラハムによって知らされていました(創15:12-14)。そして、モーセの指導のもとでエジプトを出るその夜にエジプト人に400年間払われなかった給料を要求しました。はぎ取るとか分捕り物とかは給料を意味します(エゼ29:18、19;39:10)。給料を受け取る清らかさは次の聖句が参考になります(ルカ10:7;マタイ20:1-14;1テモ5:8;ヤコ5:4)。ハガ1:6を見ますと、一つの行為がそれと同じ種類の結果を生じるはずだという原理がくずれたとわかります。なぜかというと、せっかくもらった給料を安全なものに納めなかったからです。この、穴のあいた袋に入れるというのは給料に対する無頓着(不神聖)な態度を意味する聖句です。バビロニアでの捕虜生活から神様がイスラエル人を解放した後に報酬のある生活を約束されました(ゼカ8:10)。放蕩息子も雇い人に給料のことで不当に扱われました(ルカ15:13ー)。目的なしで富を積み上げるのについて(箴13:11)。投資するかしないかについて(箴11:24)。給料を現代ある方法で納めないといけない(ルカ12:23)。給料を清らかに考えるかいないかを通して神に対する態度が決まるのです(出3:21、22)。イスラエルは神を礼拝することを目的に出て行きました。エジプトからはぎ取った宝を身に飾りました。給料が偶像をつくる材料とならないように注意しないといけません(出32:1-6)。給料は神の宮(教会)をつくるために用いられるべきです(出35、36章)。給料に対して最も残酷,または最もやさしい主人がいます。罪からくる報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です(ローマ6:23)。