2009年9月27日 「否と言う言葉は受け取らない」
2009年9月27日の礼拝メッセージはマタイ15:21-28とマルコ7:24-30から「否と言う言葉は受け取らない」と題して話されました。スロ.フェニケヤの女と言う物語は信仰生活に深い教訓を教えています。というのは、生活に思いがけないことが起こったら、神様が自発的に手を打ってくださるはずだと考えますが、いつもそうではありません。ある時に、祝福を受けるために信仰によって障害を通りぬける必要があります(マタ7:7、8)。この物語に3つの障害が見えるのです。① 神を見出すこと(21-23)。神は天地創造、ベツレヘムの赤ん坊、人間のイエス、十字架、御言葉と福音、個人のクリスチャンと教会などにご自分を隠されましたがこの同じ物がご自分をあかしています。神が隠されたところで、御自分は見出されないところがありません。② 偏見、無関心、差別ということ(22-26)。弟子達をはじめ、イエス様までこのような障害を彼女の前につけました。(ア)あなたはわたしたちと同じものではない(24);(イ)あなたの要求には優先権がない(26);(ウ)あなたは受ける権利がない(26)。彼女がこの障害を通りぬけて、イエスを拝み、彼は誰であるか、主、ダビデの子、とどのようなかたであるか、助ける人、と認めています。③ 祝福を受ける位置ということ(27-30)。「そうまでいうのですか」と言う言葉が彼女の信仰の総計を示しています。なぜか。祝福される期待と、食卓にありあまるほどのものがあることと、犬が子供と同じ質のものを受けることと、自分には主人があることとを示しているから。悪魔と主も食卓があります(1コリン10:21)。どちらから自分の信仰養っているでしょうか。 詩篇23:5、78:19.参考。