2009年9月13日 「聖と俗の区別」
2009年9月13日の礼拝メッセージは、エゼキエル44:23を中心にして、「聖と俗の区別」と題して話されました。先週、父が自分の子供に与える良いものの中に、識別をする力、すなわち、物事の性質、種類などを見分けること、というものがありました(マタイ7:6)。クリスチャン生活のすべては神にささげていますが、聖なるものと俗なるもの、すなわち、霊的なものと世間的なものを区別する必要があります。神がイスラエルの祭司たちに対して起訴をおこされたのはそのような区別を彼らがしなかったからです(レビ10:10;エゼ22:26)。まず、神が聖なると俗なるものの区別をされる参考の聖句は、出19章;マラキ1:12;申33:13―17、賜物は尊ぶものと言う意味、信者も聖なる者で区別された尊い者(1ペテ2:9;マラ3:16―18;伝2:8)。エゼキエル44章はイスラエル人が聖所の奉仕に〔礼拝〕にかかわった背景を記しています。これは心の中で始まった(5-9)。「あなたがた,我が聖なる物を守る務めを怠る」口語訳。それに対して神の刑罰は、祭司たちが聖所そのものと民にだけ奉仕をして、神ご自身に近づくことは許されませんでした。ところがツアドクの家族(15-24)が聖なるものを守ったので、神との密接な関係に入り、霊的なリーダーシップの立場に立って、教理を教えることによって、民に矯正をもたらして、公務員のように社会問題に対して霊的な知恵を持って判決を下す任務を果たします。自分の救いと信仰を守るために聖と俗の区別をするのが大切です(ユダ1:17-25)。22節に記した「疑いを抱く人々をあわれむ」の「疑いを抱く」ということばは、別訳では、あわれむ人が自分と相手に「区別をして、あわれむ」とあります。ようするに、一番大切なことは自分の救いと聖さを守ることです。これに神の約束があります(24,25〕。ところが、人が救われることに対して神は区別をなさらないのです(ロマ3:22;10:11、12;使10:9-28)。