2009年10月4日 「何か起こってくるのを待っていますか?」
2009年10月4日の礼拝メッセージはヨハネ5:1-9から「何か起こってくるのを待っていますか?」と題して話されました。口語訳本文の3節に「水の動くのを待っていた」この言い伝えは深く信じられていた〔5節〕。しかし聖書はこれを事実として支持していません。間欠温泉の地球物理学的な自然現象だったかもしれません。ところが、イエス様が輝かしい将来へと一人の人に力を付与する機会として用いられました。これこそ福音のことばです。ここに4つのポイントがあります。① 特別な事情による機会(1-2)。過ぎ越し祭り、羊の問、恵み家という意味のベテスダの池のことが神の子羊イエスの十字架によって受ける救いを示しています。そして、主の平和の王権制を意味するエルサレム。多くの人がキリストによる神の満ち満ちた祝福を受ける一つ手前にあるベテスダに立ち止まってしまいます。ところが、私達の最も恥のあるところが同時に、最も大きい祝福を受ける機会となるところです。② 非常に深刻な状態(3―6)。さまざまな悲惨な事情にあきらめ切った人達が自分を変えるのに無力で、自分の将来をただの伝説と人にかけてしまっている。38年間(イスラエル民族が荒野で生活をした同じ期間で、出発したところと向かっているところのあいだの状態)は中途半端を意味しています。③ 厳しい質問(6,7)。ほんとに直りたいのかどうかとチャレンジをさせられなければなりません。そこで過去38年間の生活が最も恐ろしい敵となりました。直るなら、自己依存して自分と社会に義務を負わなければならないし、受ける人じゃなくて、与える人とならなければなりません。しかも、直して下さる方に恩を負い、返さなければならない負債を負うようになります。そこに、力を付与することばがあります。起き上がって、床を取り上げ、歩きなさい。この言葉が思想に留まり、夢を与えます。夢は希望を与え、希望が意志に挑戦するのです。そして、信仰と実行によって行動に移ります。ことばが無ければ行動が仮定になり、信仰による行動がなければことばは無力になります。④ 満足のある結果(9)。信仰は従順によってことばを実現させるのです。どんな時点で直ったでしょうか。ことばを内面化にした時です。ところが、立ち上がった時にだけ、はじめて実現しました。その日は彼にとってほんとうの安息日になりました。あなたは何を待っていますか。生ける言葉なるキリストを内面化にして立ち上がろうではありませんか。