2009年8月9日 手で造られない別な神殿-神の受肉シリーズ その1
2009年8月9日の礼拝メッセージはマルコ14:53-62から「手で創られない別な神殿」と題して話されました。「インマヌエル、神が私たちと共にいる」と言葉に表現された神の受肉と言う真理はクリスマスのメッセージであり、救いが福音の一部だけではなく、信仰生活に対してもなくてはならない真理です。「手で創られない別な聖所」と言う言葉は、イエスが大祭司の前で訴えられた時(マタ26:60、61)と十字架に架かって、ののしられた時(マコ15:29、30)に出ていますが、本来はお勤めのはじめのほうに、宮を清められた時です(ヨハ2:18-21)。神殿とはイエスのお体です。使2:24に、イエスの体が死につながれていることなど、ありえないことですとあります。なぜでしょか。ここにイエス様がだれであるか、どのような性質であったかと言う真理を持ち出すようになります。旧新訳聖書の時代に幾つか神殿がありました。その一つ一つに神が御自分の臨在を現されましたが、それらのものはもう一つ、しかも、天の宮の象徴に過ぎませんでした。神様は手でこしらえた宮などにはお住みにならないで(使17:24)人間と共に住みたいとねがっておられます。では、聖書は神の受肉をどのように示しているでしょうか。マタ1:20-23にイエス、救い主という意味とインマヌエル、神がわたしたちと共にいると言う意味の両方の名称は救いと信仰生活の始まりを示しています。ヨハ1:1、14に三身一体の神といわれるものの中に、第二者の御子なる神の栄光(本質)、すなわち、恵みとまことを示しています。この節にある(住む)という原語では(聖所を設けた)という意味です。ヘブ10:5に神はイエスにあって、着る物を身に着せるように御自分のために体を創られました。1テモ3:16に、肉に現れた。ここに、敬虔とは神たること言う意味もあります。この節はイエスの生涯に起こった重大の出来事を示しています。では、神の受肉は日々、信仰生活の中で、わたしたちにとって、何の意味があるでしょうか。①人間に自分の霊的状態と神が人間と共に住みたいと願っていると言うことを示しています(ヨハ2:1-22)。カナンの婚礼にあったからっぽの水がめに例えられたキリストなしには知らない真の幸せは、イエスの栄光(神の受肉)を見て、信じることによってのみ知ることができます。そして、商売人がいっぱい入った宮は神のために創られた人間のこころを象徴しています。地上のものにもとづいた生活を断ち切って、聖書とキリストの言葉を通して神と共に歩む決心をしましょう。(使17:22-28参考) 次回続く。