2009年7月19日 「キリストが捨てられ、私たちは受け入れられた」
2009年7月19日の礼拝メッセージはエペソ1:1-7とイザヤ53:1-6から、「キリストが捨てられ、私たちは受け入れられた」と題して話されました。拒否された人は自己確信を失い、望みはなくなり、社会相互作用もほとんどできないばかりではなく、神に対する信頼もあまりしないようになります。次回は、この問題を人間的な見通しから見て話しますが、今回は、拒絶から受け入れられた状態への回復は福音の中心にあるキリストの、のけ者にされたことを理解することにあります。イザヤ53:3に「かれキリストはのけ者にされた」とあり、エペソ1:3に神の愛されたかたによって、「私たちに恵が与えられました」と。この「私たちに与えてくださった恵み」と言う言葉が原語では、1つのことばで、しかも動詞です。ルカ1:28にあるのと同じことばです。神は私たちに対して特別な行動を取り、私たちを恵の対象にしてくださった結果、ご自分と新しい、しかも、さらに違う立場に立たせてくださいます。キリストがのけ者にされたのは次の聖書に示されています。同輩にヨハ1:9-11;宗教指導者にマコ8:31;一般住民にルカ17:25;主権者にマタ27:17:29;なおさらに神ご自身にイザ53:4-10(マタ27:46;詩篇22:1)。その目的は人間の救いの計画です。使2:21-24;1ペテ3:18;2コリ5:21。キリストが捨てられた故に私たちは受け入れられる。放蕩息子のたとえ話にあるように(ルカ15:20-24)神が受け入れてくださいます。救いの日と恵み(受け入れる)時があります2コリ6:2。この節はイザ49章を引用しています。この章は予言的な例えで、イスラエルの復興と異邦人の救いを語っていると同時に、私たちもキリストを通して神との和解によって、受け入れられることを示しています。この章にある約束を受けて、神と和解をしなさい。