2009年4月5日 十字架の模範
2009年4月5日の礼拝メッセージは2009年イースターシリーズとして、1ペテロ2:18-32から「十字架の模範」と題して話されました。21節にある「キリストも模範を残されました」のことばを中心にして、“私たちのために”と “私たちとして”十字架に架かったキリストを見ました。私たちのためにキリストが救いを確保するのであり、私たちとしてのキリストが神に服従するクリスチャン生活は可能であることを示しています。私たちのためのキリストとは、自分の為にできないことをキリストがしてくださったと言う意味です。私たちとしてのキリストとは、私たちが自分のためにしなくてはならないことを模範としてキリストがしてくださった。という意味です。第1ペテロの手紙を調べると、試練、悩み、苦しみ、不当、謗りなどの言葉が多いと知ります。このような苦しみには3つの違う原因があります。① 自分の罪から来る苦しみ. ② 善を行った上で来る苦しみ。③ 霊的選択をした上で来る苦しみ。苦しみに対して2つの反応を示すことができます。① 忍耐を持って耐え忍ぶこと。これは消極的抵抗です。② キリストを模範に見ることで、自分を神にお任せすること。これは活動的抵抗です。キリストが私達の為に苦しみを受けたことの中に私たちとして(模範となった)キリストを見ることができます。このような模範にならって、キリストの足跡に従って歩みなら、5つの結果があります。① 罪に死ぬ。② 儀に生きる。③ 牧者なるキリストに魂をゆだねて、養われ、守られる。④ 監督者なるキリストに自分を服従して、聖霊を通して、その儀の生活の為に訓練を受ける。「このために召された」とは、苦しむことではなく、(たくさんのクリスチャンが「苦難コンプレクス」をもっていますが)むしろ、もし苦しむならキリストの模範にならって、自分を神様にお任せするということです。十字架はキリストが地上で残していかれた大きい足跡です。それに自分の足を踏みつけて歩むなら神の救いの祝福の道に生きることができるようになり、神に喜ばれて、神に受け入れられるようになります。