2008年7月6日 霊的な現実を認めること その3

2008年7月6日の礼拝メッセージは「信仰の進路」のシリーズとして、ヨハネ9:31-41から「霊的な現実を認めること」と題して話されました。ここに同じ霊的な現実に立ち向かって2つの違う反応が見えています。①自分には罪があって、許していただく為にイエス様を信じる必要があると認めた盲目であった青年(36)とイエス様を嘲笑って、自分には罪があると言うイエス様の推論を認めないパリサイ人です(40)。盲目で生まれついたのは罪が原因ではありませんが、この出来事の要点は罪です(39-41)。この出来事を通して学ぶのは次のことです。イエス様が彼の目を見えるようにしたのは目的を達するための手段にすぎないのです。イエス様は盲人だった人を後に起こった数々のひどい経験から守ることができなかったでしょうか。いえそうではないですが、もっと大きい目的を考えていたのです。最も大きい奇跡は目が見えるようになったことではなく、罪が許されて救われたと言うことです。私たちの最もひどい時は最もよい時です。人の限界は神の機会です。共同体から退会させられた青年のように私たちも神の祝福をいただく為に現在の仲間を離れる必要があるかもしれません(2コリ6:17)イエス様はいつも人間のうめきを聞いて助けてくださいます。純粋な信仰は礼拝を通して現れます。真の礼拝はキリストの主権に降参して服従することです。39-41節は言葉による例えのようです。福音によってイエス様がさばく、すなわち、人の告白の故に判決をくだします。心の目で見えない人はその罪を認めるなら見えるようになります。同じように「目が見える」と、その罪を認めない人の罪は許されないままに残ります(黙3:17-20)。生活のあらゆる状況に神様が御自分の力を現す機会があります。神様から受けるすべての祝福は、私たちを信仰と礼拝のもっと高い基準に導くはずです。