2008年6月29日 キリストの弟子となる代価 その2
2008年6月29日の礼拝メッセージは「ヨハネ9章と信仰への進路」シリーズとしてヨハネ9:13-34から「キリストの弟子となる代価」と題して話されました。福音の目的はただ罪が許され神の恵みの中で幸せな生活を送るだけではなく、マタ28:19にイエスの世界福音宣教命令によると「すべての国民を弟子とする」ことです。目が見えるようになり、イエスの奇跡をもらった青年が熟練した信仰にまだ達していないが弟子となる道を辿って私たちに教訓を教えるのです。弟子となる段階に、① 神からいただいた祝福を明確に認めるということ。隣人、ユダヤ人、パリサイ人、そして、両親でさえ自分の経験を認めていないのに本人が「私です、盲目であったが今は見えるようになった」と証して、イエスに栄光を帰しました。(9:25) 参マタ10:32。② 過去のことを忘れ、新しいものを認めなくてはなりません。ひどい取調べを受けている中で自分にかつてない驚くべき新しい恵みを受けたと認めました。(30-32)世界が始まって以来、人類にとって初めての奇跡でした。ここに2つの弟子組みが対立しています。モーセ組みとイエス組みです。青年はイエスの弟子だと認めてもらいました。③ 心に啓示された真理を受け止めなくてはなりません。青年はイエスについて次の真理が啓示されました。1.イエスと呼ばれる人、すなわち、人間の間に現れた救い主なる神;2.神から出た者、すなわち、力あるわざを行って、神に証された者;3.預言者、すなわち、神の真理を語る者。そして、それに答えて人間は、1.イエスの弟子となる、2.イエスを礼拝する、3.イエスを主として告白する。原語では弟子と言う言葉は数学と言う言葉と同じ意味です。御言葉によって訓戒、懲らしめ、訓練を受けて、自分に神のものを足したり(+)、悪を引いたり(-)、祝福をかけたり(×)、恵みを割ったり(÷)して、熟練した人になる。あなたもイエスの弟子になりたいのでしょうか。次回の題名は「霊的な現実を認めること」です。