2008年1月13日 門の外にある十字架
2008年1月13日の礼拝メッセージはヘブル13:8-13から「門の外にある十字架」と題して話されました。前回では救いへの道に十字架は躓きものですと学びました。悔い改めて十字架の購いを信じ受けるまで救われないのです。信仰の道に次に見つけ出すのは「門の外にある十字架です」。同じ十字架ですが経験上では別です。この外にある十字架は新しい秩序で、神との新しい関係に入るのです。この十字架の経験をする為に①位置を変える必要がある。「外」に出て行かなければなりません。悔い改め、信仰、受洗、そして生活に量りうる変化などがその外への移り変わりを示すのです。②外にある十字架は心を神の恵みに強めて益ある生活を可能にするのです。神が目を留められていると知るなら御言葉にある霊的な食をもって心を安定させることができます。③私たちに外にある十字架、「祭壇」で食べる権利が与えられているのです。外にある十字架はある人に対して立ち入り禁止になっています。シナイ山と変光山もそうでした。中の古いものに寄り付いている限り、外にある新しい祝福は得られません。2コリン10:5.④外にある十字架は聖別した生活へと招くのです。その身元に赴こうではありませんか。(新共同訳)赴くとはある物事に向かって、倒れたり、ぶつかったりして急いで駆けつけるという意味。熱心に命がけの気持ちで門の外に出て、キリストの元に行くと言うことはしなくてはならない決心ではなく、しないではいられない決心です。⑤門の外にある十字架はキリストの辱めを身につけるように要求しているのです。辱めとは物笑い、預けリ笑いになると言う意味。そうなる為に覚悟を「中」で、「外」に行く前に身に着ける決心をします。これはつまずきの十字架と言うことです。イザヤ62:10は「城門を通っていけ、通って行け」と命令しています。1コリン16:8,9に「有力な働きの門がわたくしのために大きく開かれている」とあります。(次回)