2007年12月30日 収穫感謝祭の終わりの日に受ける祝福

2007年12月30日の礼拝メッセージはヨハネ7:37-39から「収穫感謝祭の終わりの日に受ける祝福」と題して話されました。今年の標語は「収穫の年」です。教会と個人の霊的収穫をどのように評価すればよいのかそれぞれの基準によって違うでしょう。出席数、改心者数、受洗者数、献金、などによるものでしょうか。主は収穫の主です。主が教会一同と信者一人一人に行ってくださることを評価されるのです。ただ私たちはその働きによって受けた恵みを反省すべきです。そしてその祝福の為に感謝を捧げるべきです。そのような収穫感謝祭にイエス様はさらにまさるもう一つの霊的な祝福を約束して下しました。「渇いている人なら、私のもとに来て飲みなさい」。①人の内にイエス様だけがご満足できる渇きがある(37)。イスラエルの歴史から例をとれば、出17:3;ネヘ9:15;イザ48:21.イエス様がこれらの聖書にある岩です。そして人にある渇きを満たしてくださるのです(ヨハ6:35)。②渇きを満足させる水の源は人の内になる(38)。ヨハ4:13-15を見たら神の祝福は祭司たちが借庵の祭り(収穫感謝祭)の時に、シロアムの池から汲んで、そしてお宮の中に水がめに持っていった水のように、小さいものに始まりますがついに泉と変わり、噴水から湧き出る命の水に変わるのです(黙21:6)。③神の祝福はさらに増して川のようになる(38)。エゼ47:3-5を調べたら深さは最初に足首、膝、腰、そして渡ることができないほどに、泳げるぐらいになります。④この経験はキリストの御霊によって与えられたものです(39)。黙22:17.御言葉に対する渇き(アモ8:11)、義に対する渇き(マ5:6)、神ご自身に対する渇き(詩42:2)を神が満たしてくださる約束があります。イザ44:3;55:1.この約束はイエスが十字架で注がれた血で成就され、主の食卓に飲む汁に象徴されています。水がめから始まったこの渇きの満足は泉、湧き出る噴水、川に増して、そして天の雨(祝福)を受ける地(生活の場)となるのです(申11:11)。姑のルツは収穫の畑でのどが渇く時、若者たちが汲んだ水がめから飲むように命じられました。イエス様が汲んだ水、すなわち、神の数多い祝福を受けるように飲みに行きませんか。