2007年8月26日 礼拝シリーズ その8              礼拝者の冒険

2007年8月26日の礼拝メッセージはバイリンガル礼拝で、「礼拝」のシリーズの第8、創世記10:24-29から、「礼拝者の冒険」と題して話されました。今までの話を要約したら、礼拝には決まった準備、場所、そして内容があることが分かります。今回は未知の次元があると言うことを学びます。礼拝の中でその未知の部分は礼拝者にとってたのしみであり、「不思議の国のアリスの冒険」と言う物語のように、霊的な冒険アドベンチャーになります。中心の言葉は10:26、「あちらに行くまでは、どれを持って主に使えなければならないかわかりません」。まことの礼拝には冒険的に未知の次元に乗り出すこともあるのです。私たちは知らないものを、ではなく、何で礼拝をするかわからない。ようするに、礼拝の対象ではなくて、それは決まっていて神様ですが、礼拝の内容と言うことです。いったい、礼拝をアドベンチャー(冒険)とするものは何でしょうか。第一に、礼拝は祭りでなくてはならないということです。(5:1-3)辞書によると祭りは「祝賀(喜び祝うこと)などのために行う華やかな行事、勢い、はずみの力が盛んな様子」と言う意味。2コリン5:8.その祭り的な礼拝ができるのは次のことに基づいています。①個人的に神を知ること。②神に従順であること。③神との個人的に出会うこと。④神に要求されたものを捧げること。⑤そのように礼拝しないのは危険なこと。(5:1-3)第二に、神が求めておられるものを妥協しないことです。(8:26)世の人はもちろん、あるクリスチャンは礼拝の中で、拍手、踊り、叫び声、涙、笑い声、霊の賜物などを好まないが次の聖書を調べてください。使徒24:14;2:12-21;マタ21:5-16(詩篇8:2);ルカ19:37-40.第三に、持っているものを全部神に用いられるように礼拝の場に持って来ることです。(10:26)礼拝は敬虔な態度、秩序ただしく行うべきでしょうが聖霊が自由に働く余地(スペース)を与えることも必要です。その所にいくまでは神が持ってきたものの内からどれを求められるかはたのしみであり、それこそ、礼拝そのものと礼拝者の冒険です。わたくしたちみんなにこのような礼拝に行かせないパロのようなものがいる。そのパロに「もう二度とあなたの顔を見ない」と言いなさい。このような礼拝は怖い、不安定な気持ちなら信仰を持って兄弟姉妹たちの手をつないで乗り出して見ませんか。