2007年8月19日 礼拝シリーズ その7 礼拝のささげ物を持ってきましたか
2007年8月19日の礼拝メッセージは『礼拝』のシリーズの第7、創世記22:1-14から「礼拝のささげ物を持ってきましたか」と題して話されました。7節に、全焼のための羊は、どこにあるでしょうか。このできごとでアブラハムはどれほど神を恐れたか試みられました(1)。私たちの礼拝でも同じで、わたくしたちはどんな霊的な性質を持っているか、神との関わり、神へとの献身をしているのか試されるのです。ある人は集会、歌、説教も好きでしょうが神に何もささげません。また、礼拝を通して最も愛しているものを試されます(2)。全焼と神を恐れることは礼拝の最も大事なものです。神の一方的な愛と哀れみの故に惜しみなく自分を神に捧げますと言う意味です。このような礼拝はそう簡単に出来ることではありません。準備と動機と霊的な旅が必要です。たきぎは人間的、具体的なことで、火は聖霊による神の臨在のことで、刀は胸に抱く神の真理の言葉という象徴です。(2-5)。こういうものは礼拝のためのものだけで、また、礼拝の場に持ってくるものですが礼拝のささげものではありません。(6、7)。アブラハムの愛を象徴するイサクでさえ結局礼拝のささげ物として受け入れられませんでした。イサクのかわりのものがあった。(13)。これはイエスキリストです。キリストの十字架の身代わりの愛と死によって捧げるもののみが礼拝のささげ物として受け入れられるのです。そのような礼拝のささげ物をするならカルバリ山(キリストの十字架)による神の備えと祝福が全部与えられます(14)。そればかりではなく、自分の愛している物を神に捧げるなら神がそのものを生かして戻してくださいます。ヘブル11:17-19.二人の若者はアブラハムが礼拝の場に来るために使えの役をしたがロバの番をさせ、礼拝の山に行くことは許されませんでした。(マタ17章)そうならないようにしましょう。