2007年7月29日 礼拝シリーズ その4            神に受け入れられる礼拝

2007年7月29日の礼拝メッセージは「礼拝」のシリーズの第4、創世記4:1-16から「神に受け入れられる礼拝」と題して話されました。前の話では、礼拝は聖霊の臨在と力で満ちて、神を信じる信仰を強める神の偉大な業を語り、そして、自分を神に献身することが礼拝ですと学びました。そのような礼拝は神に喜ばれるのです。ローマ12:1.このことばが今日のメッセージの出発点です。創4章では人間がささげた礼拝の最初の記録です。アベルとカインは神の礼拝に対する二つの違う態度を示しています。その違いは一つが神に受け入れられ、もう一つは受け入れられなかった理由に秘められているのです。受け入れられる礼拝は、罪のために生きる権威が取り上げられて、神の御前に出るのが他のものの死によってのみ許されていると言うことを認めていることがそれです。アベルのいけにえは動物の死と血によったものでした。これは神ご自身から学んだことでしょう。創3:21。神は人が以前に自分の罪を購おうとする手段を断られた。3:7.それで、いちじくの木が生えている土地はのろわれました。こののろわれた土地から、しかも、自分で耕して作った産物をカインは捧げ物としました。カインには感謝のいけにえを捧げる心があったでしょうに、自分の罪を認めようとはしなかった。ではなぜ二人は違う礼拝を捧げたでしょうか。それは、アベル自身が義人、行いは正しいもので、カインより優れたささげ物を持ってきたが、カインは不義人、サタンに属して、偽りとねたみにによって行動したからです。(マタ23:35;ヘブ11:4;1ヨハ3:12;ユダ11)アベルのいけにえと自分が流した血がイエスキリストの購いを象徴しています。ヘブ12:24,25.私たちの礼拝はいつも自分の有罪を認めて、イエス様の身代わりの購いによってのみ受け入れられると覚えなければなりません。そのような礼拝者は自分の恥を忘れ、立ち上がって、顔を神様に向けることができるのです。そして神様から優れた報いを受けるのです。次回にこの報いについて話します。(つづく)