2007年7月15日 礼拝シリーズ その2             神の偉大な業を語って、神を祝福すること

2007年7月15日の礼拝メッセージは使徒17:16-30から礼拝についてのシリーズ、第二回で、「神の偉大な業を語って、神を祝福すること」と題して話されました。前回のはなしを通して、初代教会の礼拝集会では大喜びを持って、祈りととりなし、賛美のうちに神をほめたたえて、(別訳、神を祝福する)そして、神の偉大な業を語ったということを学びました。礼拝は神に向かってすることです。したがって、礼拝の一部として神の偉大な業を語ると言うことは神向きになるのです。人々はそれを聞く必要はないかもしれません。神には何の不満足や不自由なことはありません。ではなぜ神を祝福するでしょうか。それは神に対して信仰を励むためにです。使徒17章に神の業を語る、神を祝福することが詳しく書いてあります。「知られない神を教える中に7つのポイントがあります。神様は①天体を創造したこと、②自己満足で、独立的に存在していること、③人の命の源であること、④国民の生息する場所と時代を定めること、⑤神性は人間と被造物に見られること、⑥無知の時代に恵みをもって取り扱うこと、⑦義を持って裁かれることです。この目録は言い切れないのですがこのようなことは礼拝にないならその礼拝が偶像礼拝となり悪霊に使えていると同じです。(宗教心深いとは原語では悪霊と言う意味)無知で礼拝することは霊と真による礼拝ではないとイエス様がいわれました。パウロは神の偉大な業を語らないで、神を祝福しない礼拝に対してこころが非常に動かされました。アテネ人たちは真の礼拝ができるまで満足はできなかったでしょう。わたくしたちの個人と合同礼拝についても同じではないでしょうか。