2014年9月7日 「神様、どうぞ私を用いてください」 ショアー明子姉 & 「信仰生活と聖餐の関連性」 関 幸代姉

「神様、どうぞ私を用いてください」     ショアー明子 姉

私は ここ日本人教会で1993年に洗礼を受けました。数ヶ月後に日本に帰国したその時期、甲子園球場3日間に渡って行われた大きな伝道集会に集い、魂が燃やされ喜びに満ち溢れるという体験をし、その集会の中で、私も何か神様のお手伝いをしていきたい、お役に立ちたい、という思いが起こされ、その時から今までに至るまで、様々な奉仕に携さわる機会を与えられました。

  数年が経ち少しずつ私の信仰が成長していく中、いつしか自分に物足りなさを感じるようになりました。命がけで伝道している方に出会うと憧れの思いを持ちますが、さらにもう一歩進み出る信仰がなく、自分でできる範囲の献身だけをして、割り当てられた奉仕を自分なりに一生懸命してきました。

 しかし最近、自分の中になかった考えが頭の中をよぎりました。 『自分の命を人のために差し出してもいい』と。 ヨハネの福音書1513節の『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』というみ言葉と、さらに、イエスキリストがゴルゴタの丘に向かう場面が頭に浮かんできました。 

  イエスキリストは友のために命を捧げました。イエス様の地上での人類救済という使命を果たすため十字架にかかってくださり、罪人の私たちが罰せられなければならなかったのに、イエス様が身代わりとなって私たちのために死んでくださったのです。

  私は今まで自分が何になるのか、何をしていくのか、と今までずっと「自分」に関心を持っていました。

 しかし、自分ではなく神様が主体であり、自分が何かをするのではなくて、神様が何をなさりたいかを知ることがもっと大切だと知りました。 

自分主体ではなく神様主体で歩む時に、十字架を負い、犠牲を払うこともいとわない、と思えるようになり、 永遠の愛を持って私を愛してくださり、真実の限りを尽くしてくださった神様を想うと、神様は私の人生も命もおまかせできる完全に信頼できるお方だと思えるようになりました。

  1週間ほど前、クリスチャンの陶器師の方が書かれた記事を読みました。

この40年の経験を持つ陶器師は、窯から器を出すたびに火というものを通して土が陶器になる不思議さを感じる、と言っています。

陶器として使われる土は山の深い所に眠っている土で、酸素にも太陽の光にもあたったことのない土を掘り出して地上に上げて光を当てるそうです。

私たちもそのような土の存在ではないでしょうか?

私たちはずっと暗闇にいるべき存在だったのに、神様が掘り出してくださり、そして光を当ててくださいました。神様に出会って私たちは器を整えられて、美しい陶器に造りあげられていきます。

想像してみてください。 山の地面の深い所にずっと眠ったままの一生だったら、私たちはどのような人生を歩んでいたでしょうか? 想像主なる神に出会って、私たちはそのみ手で土から陶器に造り上げられていきます。

陶器はそれぞれの目的を果たします。 神様が完全な計画をもって、私たち一人一人を召してくださっています。 

自分を明け渡して「用いてください、主よ、ここに私がおります。」と私は自分を捧げていこうと思います。 皆さんはどうでしょうか? 神様の完全な計画に、ご自分をささげてみませんか?
 
 
「信仰生活と聖餐の関連性」 関 幸代姉 聖書箇所:ルカ24章 132節 、 黙示録320
   ルカ24章の最初に登場する女達は、大きな石、妨げがあってもとにかくイエス様の墓にどうしても行きたい、イエス様にお会いしたい。どんな困難な状況でもどうしてもイエス様にお会いしたいと、とにかく前に進みました。 マルコ164  マルコ168 
   ルカ24章の次の場面に登場する2人の弟子たちは、一緒に話しているイエス様に無理に願うほど、一緒にいたいと引きとめました。 ルカ243032
 私達はどれほど、イエス様をもとめているでしょうか?イエス様とご一緒したいと願っているでしょうか? 
私達がイエス様を求めた時に、女達のように目を上げると大きな石がすでにころがしてある、現実では自分達の力ではとても不可能な神様の奇跡と栄光の業を見る事がで出来ます。女達はイエスの御言葉を思い出した。」とあるように御言葉から既に困難な試練からの解決が語られていたです。
 また、2人の弟子達のように暗い顔つきで希望もない絶望的な中でイエス様ご自身が近づいてくださり、必要な御言葉を通して語りかけてくださる。それが始めはイエス様だと気が付かなくても徐々に元気付けられ、無理に願うほど慕いもとめる。その求めた時にイエス様を心の主としてお迎えしたいと願った時に、目が開かれイエス様と出会う。
 私達がまずイエス様を自分自身の実生活の中にお迎えする、自分の信仰生活の中で、イエス様が全てであるとお委ねするときに、復活の主に出会う事ができるのです。
イエス様の復活、福音が聞くだけ、教えられただけに留まるのではなく、私達が生かされている福音、実生活の中でどれだけイエス様を迎え入れているか、信頼して自分の主権をイエス様に譲り、謙遜になった時、自分の信仰生活の中で、イエス様が全てであると委ねた時に復活の主に出会う、神の奇跡と栄光を自分自身の経験として体験していく事ができるのです。そのためには、イエス様の御言葉に聞く、自分の御言葉として語りかけられているイエス様の語ってくださる生きた御言葉を求める必要があるのです。
 黙示320
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 
イエス様は神様なので何でも出来るのですが、人間の自由意志を尊重しておられます。ジェントルマンなので、決して無理やりに戸を開けることはしません。愛と忍耐を持って戸の外に立ってたたいておられます。自分自身が戸を開けないとお迎えしないと決して入っては来られません。
イエスキリスト様を心の主としてお迎えし、聖餐式に預かることによって、信仰により聖霊の働きによって、神様の祝福を受け、神様との関係を新たにし、イエスキリストによる購いと救いをさらに深く体験できる時です。
聖餐、イエス様とともにお食事をすることにより、力を受けて現実の世界で困難の中でも奇跡と栄光の勝利を体験することができるのです。