2013年8月4日 「裏切りの夜に見えた愛」


2013年8月4日の礼拝メッセージは1コリン11:23-26から「裏切りの夜に見えた愛」と題して聖餐式メッセージが話されました。第一コリン10章と11章の2つの聖書箇所では聖餐が神学的な問題ではなく非常に実践的で、日々の生活に当てはめられるべき真理であると示されています。11:23ではイエスが聖餐を行った夜は「渡される夜」という刺すような言葉で証明されています。この言葉は弟子の一人ユダがイエスを裏切ったことを意味しています。福音書のその出来事の中で「裏切る」という言葉が使われています。裏切るとは不公平な苦しみを与えるために人を渡す非道徳的行為です。

ユダはイエスを裏切るまでに下っていく行程の段階には、①イエスがユダヤ民族をローマ帝国の圧迫から解放するメシヤであるかどうか幻滅していること(ヨハ13:19)。② イエスを裏切ろうと計画する工夫を立てたこと(マコ14:9,10)。③サタンが使用する人となったこと(ヨハ13:2)。④サタンが彼の中に入ったこと(ヨハ13:27)。

その夜に、重大な事柄は幾つか起こっていたが、これらの事柄はユダの裏切りに対比されることはないでしょう。この憎むべき行為に反してイエスがユダに対して示された愛の行為は、千の太陽の日光より輝いていたのです。

イエスの愛は、ユダがきよくない者にもかかわらず彼の足を洗われたこと(ヨハ13:1-12)、また、裏切ろうとしている彼に聖餐のパンと杯をあげられた(ルカ22:15-22)。誰もの中に裏切り者がいる。福音を退け、毎日犯している罪はイエスを十字架に付けてしまっている 。聖餐に与る時、皆が裏切りの罪によって有罪です。しかし聖餐にはイエスの愛がある。過去に置いて私達は裏切りをしたことがあり、または、裏切られたことがあるかもしれない。裏切りは神の自分に対する計画の成就に対して邪魔になっている。裏切りはどんな形像があるのか次に目録を紹介します。その中に自分がしたもの、自分にされたものがあるならキリストによる愛を通して赦しを得て、赦してあげなさい。