2013年8月18日 「高い山に立つため」


2013年8月18日の礼拝メッセージはマタイ17:1-8から「高い山に立つため」と題して先週のメッセージに引き続いて話されました。前回のメッセージでは、主がどの状況の中から起こされるかについて話され、今回はどの状況の中へ起こされるかを話されました。

それは、イエスと一緒に高い山に立つためです。聖書の中で「山」と言う言葉は577回出ています。山は、自然のものというより神の雄大な性質を象徴しています。ユダヤ教とキリスト教の真理は、カナンと現在のイスラエルの国の山地地形とに絡み合っています。キリストにあって招かれている、私たちの高貴な生活は「山」のイメージとして描かれています。ここで、聖書の中の山に象徴されている真理を取り上げるのは無理ですが今後、メッセージの中で語りたいと思います。

マタイ17:1-8の出来事は「変貌山」、現在のタボル山で起こったことです。高い山に立つ目的は、キリストについて啓示を受けるためです。12弟子の中からどうしてイエスが3人だけを山に連れて行かれたでしょうか。イエスとこのような密接な関係の中でしか、主はご自分の秘められた神聖を示されないでしょう。聖霊によって神の臨在を経験するためです。聖書の中で雲は聖霊による神の権威、力、を象徴しています。 聖霊が私達をおおう時、恐れかしこんで神の偉大さを認めるようになります。イエスから奇跡のタッチを経験するためです。知性的に神の臨在を認めるだけでは十分ではありません。経験上で知る事も必要です。キリストのタッチを感じ、そして御言葉を聞いて、最後に実地的に応答することは祝福を得るための正しい順番です。イエスに対する信仰と献身をきよくするためです。三つの幕屋は、イエスを他の聖者と平等の者にするという意味となります。そのような信仰と献身は清められなければなりません。上記の目的を成就するには「山」、すなわち神の臨在の中にさっと入ってさっと出てきて、できることではありません。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ(出 24:12 )」の中の「そこにおれ」とは時間をさいて、ゆっくりするという意味です。神の山に腰を長くかけましょう。そこでどんな経験をするか楽しみにしていましょう。