2009年2月22日 「期待を運ぶ人」 神の祝福を運ぶ人シリーズ その7
2009年2月22日の礼拝メッセージは「神の祝福を運ぶ人」シリーズとして使徒3:1-11から「期待を運ぶ人」と題して話されました。5節に口語訳では、彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目して、とあります。生まれつき足なえの人のお母さんや彼を毎日、宮に運んであげた人たちは希望をあきらめていましたが、ペテロとヨハネは希望を差出しました。なぜでしょか。①期待を運ぶ人は習慣的に神の臨在の中で生きる人です。この出来事は宮で起こりました。弟子達は毎日、宮詣をして、神を礼拝していました。②期待を運ぶ人は個人的にイエス様に出会った経験を持った人です。すぎた数週間に弟子達はイエス様の十字架、復活、聖霊降臨、3000人の受洗者、奇跡を目撃して、信者と一緒に家で交わり、聖書学び、聖餐、共同生活を経験しながら、宮の中で異言を語り、神を賛美していました(詩篇95)。聖書学者の考えによると収穫の祭りの時でした(レビ23)この時に113-118篇を歌いながら宮に入っていきました。③期待を運ぶ人は将来を現在に持ってくる人です。足なえの人は期待(期を待つ)を、ペテロが持っていると思っていました。④期待を運ぶ人はほしいものから必要なものに向きを変える人です。足なえの人の期待のレベルはお金でした。しかし、ペテロは彼にはイエス様による新しい人生が必要だと知っていました。⑤期待を運ぶ人は信仰を生じさせる為に実際的行動を取る人です(立ち上がらせた)。美しの門と言う「美しい」は「熟す、季節、青春」と言う意味もあると考えられています。これは神が人間をあわれんで下さる時が来たと言う意味と、足なえの人に青春のように救いと癒しの時が来たと言うことを象徴しています。これが実際に起こるために必要なものは期待を運んで来る人だけでした。