2009年1月11日 死体を運ぶ人 神の祝福を運ぶ人 シリーズその2

2009年1月11日の礼拝メッセージは「神の祝福を運ぶ人」とのシリーズの中で、第―列王記17:1-24から「死体を運ぶ人」と題して話されました。読者がこの課題の言葉を見た時、どきっとしたのではないでしょうか。中心聖句は17章19節です。エリヤが死んだ子を屋上の部屋に抱えて上がりました。しかし、この物語に「死体」を運んでいる人がもう一人います。それを調べる前に次の二つのことを考えましょう。①ご自分の祝福を得る為に神様がいろいろの方法を使って、その祝福を受ける位置に私たちを動かされます。②その道のりに多くの経験がありますが神様はその事情にではなく、その人にお目を注いでくださっています。この聖書の中で、最も出ていることばが「主の言葉」です。神様はこの女が御言葉を完全に信用できるようにと導いておられるでしょう(24)。それに関して次のこと考えましょう。挑戦(13)、約束(14)、選択(15)、祝福(16)。これは奇跡を受ける前の奇跡です。そして今、メインの舞台になる。食料の奇跡によって助かった子供が死にました。彼女の反応をよく見てください(18)。この死によって彼女が過去に犯した罪は思い起こされました。何の罪でしょうか。聖書には書いてありませんが、第二サムエル記11章、12章にあるダビデ王とバテシェバのことを例にしたら、姦淫によって生まれた子の死亡と言うできごとがあります。彼女が過去に、姦淫という罪を犯した覚えを長い間、心の中で「死体」のように運んでいたのではないでしょうか。その子は私生子ではないでしょうか。毎日、目の前に子が見えたらその罪の咎めに刺されたのではないでしょうか、子がなくなった今はなおさらのことです。あなたも過去の罪の覚えと言う「死体」をこころにまだ運んでいないでしょうか。神様はあなたをその罪から解放させたいと願っていらっしゃいます。どうしできるでしょうか。その罪を神に「よこす」あけ渡すことによるのです(19)。ロマ7:24-8:2;マタイ11:28;詩32参照。エリヤの行動と祈りはイエス様の十字架と復活を意味しています。エリヤは子の死体に自分の体を伏せて、その子の死と等しくなった。これはイエス様の十字架を示しています。同時に、子の死体はエリヤの命と等しくなったのは、イエス様の復活を示しています。信仰によって私達も同じようにできます。ガラ2:20.