2007年4月1日  十字架の必要

2007年4月1日の礼拝は聖餐式のメッセージで、ヨハネ18:1-14から「十字架の必要」と題して話されました。11節の「父が下さる杯をどうして飲まずにいられよう」という言葉を中心にして、救いは私たちの側では信仰、すなわちイエスを信じることによるものですが、神様の側から見ると十字架によるものです。ということをみてみます。
このメッセージでは、イエスはなぜ十字架に掛けられなければならなかったか。というだけでなく、十字架が信者の生活の中にどういう意味を持っているのかということも考えてみます。この出来事の前にイエス様は弟子達と過ぎこし祭りを祝っている時、私たちが今行っている聖餐式を取り入れられました。聖餐式で使った杯は十字架で流されたイエス様の血を象徴しています。ところが、11節にある杯は別です。この杯は”十字架そのものと罪に対して神の怒り”という意味になります。イエス様はこの杯が取りのけられるように祈られました。(ルカ 22;42)ペテロもイエスをこの杯「十字架」から救おうとしましたが、飲まずにはいられないものでしたので無理でした。なぜ十字架は必要でしょうか。①聖書を実現するため。(マタ 26:54) 聖書というのは a)大祭司カヤパの預言。(ヨハ19:14、11:50-53) b)神の預言的計画を成就するため。(イザヤ53:4-10) ②十字架が剣より力あるものを示すため。(マタ26:52-54、ルカ22:53) ここに二つの勢力が見られるのです。肉的な考えと神の御心に服従することです。信者の生活の中に十字架がなくてはなんの特権も権威もありません。(マル10:35-40) 詩篇116:12-14で、すでに救いの恵みを受けているのになお生活の中で私達は救いの杯(十字架)を取り上げなければなりません。とあります。 (ヘブ12:1-4)聖餐式にイエスの十字架による勝利を祝うだけではなく、自分の十字架を負う決心も確認します。
あなたが頼っている力は剣か十字架かどちらでしょうか。