06年12月17日 クリスマスの周囲の出来事から学ぶべき霊的教訓

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カ2:21-26を例にして「クリスマスの周囲の出来事から学ぶべき霊的教訓」と題して話されました。マタイとルカによる福音書にあるイエスの誕生の記録 を何回か読んで見ますとその周囲の出来事はジグソウパズルのように見えるのです。祭司と王から羊飼い、天文学者、親戚、商人まで、12の違う人物があり、 4つの国と2つの町で人口調査、海外旅行、こどもの大虐殺事件がおこり、夢の中で天使が現れ、予言、自然界に超自然現象と聖霊の働きにする霊的現象もあり ます。これらの事柄はただの記録のためだったでしょうか。それとも、わたくしたちに霊的教訓を教えるためにでしょうか。そうです。学ぶべき教訓はたくさん あるでしょうがもう一度この二つ福音書に目を通してみますと次のことが教えられるでしょう。①思いがけない事情の中で毎日の霊的決まり「ルチーン」を守り 続けるべきこと。ザカリヤとエリザベツ、ヨセフとマリア、羊飼い、シメオンとアンナはみな日々の生活の中で神様の訪れをうけました。②平常に神の言葉に基 づいて生活すれば「正しい人、敬虔な人と言う意味」神様がなにか特別に語りかけてくださる時、その言葉を神からの言葉として認めて、すぐに応答して従順に なることができます。③聖霊様を親しく感じること。聖霊時代「ペンテコステ後の時代」ではないのに、旧約時代に働いている聖霊をこんなによく知って、導か れて、そして従ったとしたら、わたくしたちはなおさらのことです。④聖書の記録、真理を確信すること。ルカと使徒の書が同じ記者、宛て、目的です。それは 「私たちの間で確信されている出来事(福音)」です。⑤イエス様と個人的に出会うこと。羊飼いたちは近くから、博士たちは東方から来てイエスに会った。場 所問わず、時間問わず、だれでも、あなたもイエス様にお会いできるのです。

061210

2006 クリスマスメッセージシリーズを始めまして、今回はマタイ1:18-25から「失望から救いに」と題して話されました。クリスマスのメッセージはいつも 「イエス」と言う名前の意味にあるのです。それは「彼は自分の民をその罪から救ってくださる」と言うことです。しかしあの最初のクリスマスはヨセフとマリ ヤにとって、はじめに、今日であるように喜ばしい時ではなかったでしょう。夫婦生活が始まる前から妊娠の身になったマリヤとヨセフは将来、結婚生活に対し て二人とも持った夢が砕かれて、失望に落ち込んでしまったのです。ところが神の言葉がヨセフに来て、「恐れないで、あなたの妻、マリヤを迎えなさい。その 胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と言い換えれば、あなたは失望と考えている中で聖霊が働いて下さっていますので、もしその失望を両手で取るなら あなたの運命を築き上げるようになります。今年のクリスマスはあなたの過去よりあなたの将来を開く時になるでしょう。ヨセフがマリヤを迎えたことによって 予言されたメシヤの系図につながれるようになった。またそれよりもっと不思議なことがあります。マタイ1:1に日本語で「系図」と訳された言語では「世 代」と意味です。この世代という言葉は聖書ではある特定な時期を指すだけではなく、その時期の共通した特徴を意味する場合もあります。参考詩24:6口 語;箴30:12-14;マタ3:7;11:16-20;1ペテ2:9.イエス様によって一つの新しい代が始まった。その特徴は信仰です。マタイによる系 図はアブラハムから始まります。ようするに信仰の血統です。ヨセフはマリヤ、自分の失望を取って、神の言葉に立つ決心をした時、信仰の旅に旅出して、(ア ブラハムからキリストまで42代があります。イスラエル民族がエジプトから約束の国カナンまでの42回立って、宿営したことに当たります。民33章)、キ リスト信者の信仰生活の型となりました。ガラ2:20.そして、もし、わたくしたちも、失望を取って、聖霊の働きと協力すれば自分の将来と運命築き上げる ことができるのです。

0612月3日

ルカ1025-37 ら「私の隣人とはだれのことでしょうか」と題して話されました。「よきサマリア人」についての説教をよく聞かれたと思います。ノンクリスチャンの人たちは この聖書から人間がお互いに助け合うべきだと主張しています。そうすれば天国に入れられるでしょう。しかしそのように言うと、救いはよい行いによるものと なり、イエス様が十字架の上で死ぬ必要はなかったでしょう。この物語に何かもっと重要なことがあるはずです。そのことは前の1-23 にあると考えます。イエス様は弟子たちに権威を与えて、宣教に送られました。弟子たちは帰ってくるとその受けた権威によって悪霊どもでさえ自分たちに服従 したと報告しました。そしてイエス様は祈りの中で弟子たちが天の御国の力を経験したことを喜んでおられた。立法の専門化がこのことを見て、そのような永遠 の命を知りたいとイエスに願ったところ、イエス様は神と自分を愛するように隣の人をも愛しに行きなさいと命令されました。よきサマリア人の物語の中で隣人 は強盗に襲われた人ですがイエス様は本当の隣人はサマリア人だと断言されました。というのは永遠の命の内閣は愛ですがその愛には天の御国の権威、力、人の 命をかえる能力と言うことです。祭司とレビ人(宗教、社会、政治)にはなかったようです。しかしサマリア人に人を助けるためのものは十分ありました。イエ ス様は人間の事情をヨハネ10:1-10とマタイ9:36に示されました。参考に2歴18:16生活に権威がない事情。2歴28:1-15.敵の攻めによ る事情。エゼ16:1-14。先祖と誕生による事情。ルカ15:11-32.自分の間違った選択による事情。わたくしたちはよきサマリア人のようになるた めに弟子たちが見聞きして、そして自分で天の御国の権威と力を経験する必要があります。自分も強盗に(罪とサタン)襲われた事情を認めて、イエス様から心 と霊と精神と肉体が救われる手当をしていただく必要があります。黙3;17,18.そして、イエス様がくださる聖霊による権威を受ける必要があります。そ うすると、本当の隣人になれるでしょう。

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ルカ136-9 中心にして「神の祝福にあずかる」と題して話されました。ヘブル6章にある基礎的な教えとそこから出てくる定まった結果のシリーズを続けました。6-9節 に農業作業を例に神の祝福を受ける条件を示しています。土は雨の祝福を受けます。そして穀物を生じるのは当然ですが、農夫がその祝福にあずかるために土を 耕す必要があります。多くのクリスチャンが神の祝福の注ぎを受けますがその充満を味わないのです。どうしてでしょうか。受けた恵みを耕さない(育てない、 成長しない)からです。ルカ13章にあるたとえ話には農園の係り人は主人の怒りを納めていちじくの 木のまわりを彫って肥料をやってみるように進めました。木は以前に実を実らしたようですが何か原因で三年の間、実はなりませんでした。別のたとえ話にある ように(ルカ16:3)多くのクリスチャンが「彫るには力がありません」。耕すことは神の祝福を受ける原理の一つです。創2515 3:23.参考に箴言13:23と20:4を見てください。もし、神の祝福の実を味わいたいなら主が指図される作業をしなければなりません。イセヤ28: 23-29.この作業とは①期待ということです。すなわち信仰から来る希望です。1コリン9:7-10.②キ リストの十字架につながれることです。1列19:19にエリシャは十二匹の牛で耕していた時に十二匹目のそばにいた。片手ですきを持って、別の手でむち を、しかし牛につながった手綱は自分の首につげってあったと思われます。マタ11:28-30にイエス様が「私のくびき(十字架と言う意味)を負いなさ い」と命令された。③教会の中の兄弟姉妹と交わりを持つこと。ピリピ4:1-3.神の祝福を耕さないなら信仰生活の畑には茨などが入って滅びてしまう恐れ があるでしょう。しかし神はあなたのことでもっと良いことを計画してくださっています。救いにつながることです。アーメン

061119

ルカ5 1-11を参考にヘブル6:4にある「聖霊にあずかること」と題して話されました。ここに記された「あずかる」ということばの意味がわからなければこの心 理をただしく理解できないでしょう。漢字辞書によると「あずかる」を「預かる」と「与かる」と書きます。しかし聖書ではいつもひらがなで書いてあります。 預かるとは保管する;引き受けて世話する;処理を似せられて引き受けると言う意味です。与かるとはかかわりをもつ;何々に参加する。なりたちはふたつのも のがかみ合った形を示す字;(歯車が噛み合うように)力をあわせる;噛み合って交わることです。言語ではメトチョスで、日本語に訳せば一緒に手で持つと言 う意味です。このメトチョスという言葉はルカ5:7では仲間と訳されています。自分を聖霊に預けると聖霊がわたくしたちを預かってくださる。そして私たち と仲間になって、一緒に務めの任務を持ってくださるのです。1コリント12:13によると聖霊が授けてくださるバプテスマによって(水によるバプテスマと 違う)からだなる教会に導きいれられます。そして聖霊を飲むものとせられるのです。昔も今も杯をあげて、乾杯をすることによって両者の間の契約を確実なも のとするのです。聖霊が教会の管理者です。信仰によって信者が自分を聖霊の権威の下に入れます。黙示録2:7.初代教会は聖霊との組合員として(パート ナーシップ)世界をひっくり返した。使途9:31によるとこの噛み合った交わりを通して、霊的に成長、礼拝は深めていくこと、聖霊との親しみ、そして人数 的増加が見えるようになります。ペテロが仲間から助けをうけたおかげで自分の無価値を知ったにもかかわらず、イエス様は人間を捕る漁師と言う使命に召され ました。聖霊にあずかる者となりましょう。

061112

ローマ書4:13-25を中心にして「神のすばらしい言葉を味わう」と題し話されました。ヘブル書のシリーズを続けて、信仰生活には基礎的な教えと経験(6:1,2)があるならば、キスト信者が45 にあることを経験しているはずです。このメッセージでは「神のすばらしい言葉を味わう」について考えたいと思います。ここに(すばらしい)と訳されたこと ばは言語では動詞形容詞の形で、味を見ると言う意味で、比喩的用法で経験と言う意味です。ですから本質的な神の御言葉ではなく、経験によって知る神の御言 葉を意味するのです。エレミヤ書15:16には「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたの御言葉は、わたしにとって楽しみとなり、 心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」と書いてあります。エレミヤは神 のみ言葉を発見した時にそれを内面化しました。そして、その経験ができたのは神様がどなたであるか(万軍の神、主)を知った上だけではなく、自分もだれで あるか(神の御名をつけられている)を知った上でもあります。多くのクリスチャンがわからないとか、できないとか言うのです。むしろ自分を神の御言葉の立 場から見るべきです。神の御言葉を内面化すると信仰を生じるのです。ローマ10:17,8. ブラハムが内面化した御言葉と信仰のかかわりはなんであるかの模範となっています。1.世界を相続すること。(4:13)世界とはヘブル6:5によるやが て後に来る世です。2.約束を保証すること。(4:16)ようするに御言葉は確実ですという事がわかります。3.神の超自然的力のこと。4:17)信仰の もっとも強い例は神ご自身です。4.希望を生じること。(4:18-20)アブラハムとセラは神様が行っているおなじ時限に移ります。それは「無」から 「有」へと言うことです。このために希望が必要です。アブラハムの例は私たちのために書かれています。(4:23-25)

0611月5日

ヨハネ47-15 中心にして「天からの賜物」と題して話されました。ヘブル書のシリズを続けて、信仰生活には基礎的なおしえと経験(6:1,2)があるならば、キリスト信 者が4,5節にあることも経験しているはずです。この中の一つでも経験していないならその原因は信仰の基礎に確かに何かが欠けているでしょう。(使 徒19:1-6)前回「後にやがて来る世の力」について話しました。今日の課題は「天からの賜物」です。日本語辞書によると「賜物」とは「ある行為に対し て表れた良い結果」と言う意味ですが聖書では「賜物」とは私の行いに対する報いとか試験に合格することとか賞品とか言うような意味ではありません。むし ろ、神様はキリストが十字架を通してしてくださったことのみによってくださることです。しかし受けるために条件がついているのです。ヘブ6:4では天の賜 物と呼んで、そしてそれを味わうのです。ヨハ4:10では神の賜物と呼んで、そして、それを知るのです。この賜物は光を受けてからいただきます。2コリン 4:6,7を調べてください。この賜物はイエスキリストご自身です。ローマ5:15-17によるとただでいただく恵みと義の賜物と呼ばれ、そして信者がそ の賜物によって信仰生活のあらゆる点において勝利を得ています。エペ4:7-12ではこの賜物は勤めです。みんながキリストにあって奉仕のために同じ力量 を受けました。サマリアの女はこの天の賜物がほしかったが古い生活に背を向けて新しい生活に入るかどうかを決めなければなりませんでした。イエスはだれで あるかを知って、天からの賜物をいただきました。あなたもできるのです。

061029

ヘブル書6:1-9から「救いに伴うこと」と題して話されました。ヘブル書の中に(もっ ともよいこと)について話されている箇所がいくつあります。信者がこのもっともよいものを知って、自分の信仰生活に取り入れなくてもよいものもあります。 その一つは、後にやがて来る世の力と言うことです。(6)主の祈りの中に、御国が来ますようにとありますが、どう言う意味でしょうか。確かに、かしこより こられるイエスが世の終わりに、新しい天と地を携えておいでになると言う意味があるでしょうが、これは神様のご計画なので、わたくしたちは祈っても祈らな くても実現されるのです。イエス様は地上にいる間、ご自分のご生涯と教えの中で、後に来る世界への窓を少しだけ開いて、神の御国を示されました。その国の 特徴を次の聖句で調べてください。マタイ4:17;26:53;ルカ11:20;ヨハ18:36。神様が十字架と復活によりこの次に来る世がイエス様に服 従させられました。ヘブル2:5-10.キリスト信者は救いを通してこの世界の力を味わうことができます。この世では不可能と考えることが可能になり、神 の超自然的な力を手に入れ、使用できるようになります。使徒2:22-28;マタイ19:23-26;マルコ9:23,24.この世はまず私達の内部に存 在するものです。ルカ17:20,21;1ヨハ3:20;4:4;そして地上にいる信者と天にいらっしゃるイエス様とのパートナーシップ共同体です。マタ イ16:19。クリスチャンには目では見えない霊的な世界がはたらいて、エペソ1:21;2:6その力を目で見える肉体的世界において用いているのです。 この世界はパウロが見えるようにと祈っていました。また預言者エリシャは自分の召使がみえるようにと祈ったことです。2歴代6:15-1

061022

ヘブル書5 11-6:9から「信仰生活の基礎」と題して話されました。ヘブル書は多少わかりにくいように思えます。記者はこの書の中でイエスキリストが自分の生涯、 死、と復活を通して、旧約聖書に記されたユダヤ教の行事をどのようにして成就されたかを示しています。その旧約の歴史とユダヤ教に詳しいなら問題ないで しょうが今の時代の私たちにとって違うようです。記者は読者がどれほど分かっているのかとすこし落胆しているようです。(5:11)かれらは信仰の高い基 準に達しているはずなのに(5:11-14)信仰生活が進んだどころか逆行してしまった様子です。その根底は何が正しいか正しくないか分からない状態で す。そこで記者はその原因を示して、また立ちなおすために信仰生活の根本的なこと(初歩、基礎)を思い起こさせるのです。 つの事が言えます。(6:1,2.)信者の信仰生活がどんどん成長しない原因はこの中のどちらかの一つが欠けていることです。またなお、クリスチャンとし ての経験(6:4-6)をしていないのです。その状態は非常に恐ろしいものです(4:4,7,8)。前に日本である宣教師が会議で人々の前で「わたくしは 10年間宣教師をしていますが、今はじめて救われていなかったと言うことに気が付きました」

061015

ヘブル書5 11-6:9から「信仰生活の基礎」と題して話されました。ヘブル書は多少わかりにくいでしょう。記者はこの書の中でイエスキリストが自分の生涯、死、と 復活を通して、旧約聖書に記したユデヤ教の行事をどのようにして成就されたか教えています。その旧世の歴史とユデヤ教に詳しいなら問題ないでしょうが今の 時代の私たちにとって違うのです。記者は読者がどれほどわかっているかに対してすこし落胆しているみたいです。(5:11)かれらが信仰の高い基準に達し ているはずなのに(5:11-14)信仰生活が進んだどころか逆行してしまった様子です。そのどん低は何がただしいかただしくないかわからないと言うこと です。そこで記者はその原因を示して、また立ちなおすために信仰生活の根本的なこと(初歩、基礎)を思い起こさせるのです。これらのことは六つです。 (6:1,2.)信者の信仰生活がどんどん強くならない原因はこの中のどちらかの一つが欠けていることです。またなお、クリスチャンとしてしているはずの 経験(6:4-6)を知らないのです。その状態は非常に恐ろしいです(4:4,7,8)。前に日本で宣教師が会議でみんなの前で「わたくしは10年間宣教 師をしていますがいまはじめて救われていなかったと言うことに気がつきました」と証しました。読者にお伺いさせていただきますが「あなたが救われています か。自分の信仰生活に基礎的なことがしっかりとつけてあるでしょか」

0610月8日

ブル書5:1-11から「永遠の救いの源であるキリスト」と題して話されました。ヒマラヤ山脈の中のエバレスト山の登山者はネパル人の「シャーパー」たち を案内手として雇います。シャーパーたちは山の気分をよく知り、何回も頂上まで上ったことがありますので登山者を頂上まで案内して、そしてふもとまで無事 で連れ帰ることができます。その遠征の成功はシャーパーたちにかかっています。かれらには登山の困難に打ち勝って山を勝利した経験が重なっているからで す。このために登山者も「世界の屋根」に立つ浮き立ちを経験するようになります。今日の聖句にシャーパーと同じように救いへと導くイエスキリストとが見ら れます。59節。ヘブル書ではイエス様を①「創始者」先頭に立ってついて来させる者と言う意味。2:10;②「源」原因と言う意味5:9;③「完成者」12:2として紹介されています。この三つの勤めを「大祭司」として果たされています。大祭司の任務は5章1ー4節にある。大祭司の人としての特徴は52節です。キリストは人として、自分の人間性を通してこの二つをじょうじゅうされました。5 10にキリストの人間性の九つの特徴があります。こうしてキリストが生活の中で信仰の険しい山と暗い谷間を経験している信者をシャーパーと同じように同情 でき、代わりに重い荷を運び、危険から守り、そして信仰の遠征を成功させて、救ってくださいます。ただ登山者の私たちは私たちの「シャーパー」イエスキリ ストについて行かなければならないのです。そうでなければ、むしろ自分でよいと思う道を選ぶならただしい道を見失い「無知の者」そして迷ってしまうでしょ う。登山者はいつも案内手のシャーパーと縄でつながれているように、救いの源であるイエスといつもつながれていなさい。

0610月1日

前回に引き続いて、ヘブル4:11-18から16節を中心に、「恵みの御座に近ずこう」と題して話されました。ここにある「助け」とは何のためでしょうか。このところに記者は312 にはじめた課題に戻っています。すなわち、告白する信仰の使途であり、大祭司であるイエスキリストです。告白と言うのは口だけではなく生活です。このため に助けを受けるように御座に行きます。そうしなければ信仰の確信を失うのです。3:14.この聖書に二つの重大な言葉があります。確信と告白です。確信と は信じることかかわっています。告白は公にその信じていることを示すことです。このための助けを地上で、同じ信仰生活のゆえに試みられた(ルカ22: 28)しかしみごとに勝利された、しかも、今、天で着座されているイエスから受けるのです。11章は同じ告白をした者の受賞名簿です。1212 にわたくしたちも信仰の競走にイエスに目をつけて頑張るようにと励まされていあます。大胆さはあつかましさでもない、でさっぱりでもありません。大胆さと は自由と言う意味で、自分には御座に行く権威を持っていると言う意味です。御座で希望を受けます。(6:18,19)希望は錨の役をして魂をしっかりとめ させます。しかしこの希望はものではなく、十字架の苦しみを通って、向こうに抜かれらた人なるイエスです。(7:19)希望は喜びにつながり、喜びは永遠 の命につながるのです。この天の幕やの内側にある御座におられ、わたくしたちの告白信仰の大祭司なるイエスキリストがわたくしたちの救いを完全なものにし てくださいます。この救いは十字架にはじまり、十字架を決して忘れてはいませんが、御座に完成されるようになります。定期に行っている聖餐式に祝っている 救いはこれです。

06年9月24

ヘブル人41-11 により「神の安息」と題して、先週に引き続き、確信をしっかりと最後まで持ち続く報いとして神の安息に入る祝福が与えられると話されました。この安息は 「わたしの」神様ご自身の安息です。神様は約束して下さっているのにある信者がこの安息に入らないのです。しかし入るように努力するようと励まされていま す。入らない原因には四つのことがある。言葉と信仰と従順はミクスしないことと、悪例にならうからです。この安息に対して二つの例があげられています。①ヨシュアとイスラエルが荒野で「申12章9,10」神を痛めて、確信を失い、そして、荒野で死んだ。これは悪例です②神様の天地創造の時、七日目に天地創造を祝って休まれた。創2章1-3.これは良い例です。ところがヘブル所ではもう一つの安息を話しています。7節にダビデを通して語られた安息です。詩95:7.この安息はキリストの福音によるもので、キリストに預かる(3:14);十字架の業(新創造)が完了した。(ヨヘネ19:30)。マタイ1128-30節にイエス様が自分の休みを語られました。二つあります。①罪の重荷をおおて、イエスに来るひとに「与えられる」休み、②イエスとくびきを結び付けられイエスにならった信者に来る(英文聖書ではfind見つけ出す}休み、くびは十字架の意味です。最初の休みはイエス様が私たちのためにおおって、身代わりとして死んでくださった上で得る休みです(ローマ書5章)。二番目はわたくしたちはイエスとともに十字架につけられた上で得る休みです(ローマ賞6章)。神の安息、すなわち、イエスの休みに入った人の特徴は次のとおりです。①創49:14.奉仕をしながら休み場はどこにあるのか知っています。②申12:9-12.喜びを持って神を礼拝する。③申25:19.過去の失敗、敗北と傷を取り消して忘れる。④イセヤ28:11,12.異言を語って、自分をレフレッシュする。⑤イセヤ30:15.救いを確信して強くなる。⑥イセヤ63:14.聖霊と親しくなる。

06年9月17

ヘブル人3章:6-1 節により「最初の確信をしっかり持ち続けること」と題して話されました。この3章では二つの家、二人の人物、二つの位、二つの勤めが見られています。それ はイスラエルと教会、モーセとキリスト、僕と御子(みこ)、使えること収めること。モーセは自分の家の中で忠実(ちゅうじつ)でした。キリストが神の家の 上で忠実(ちゅうじつ)さと権威を示されるのです。わたくしたちはキリストを信じて、自分の全生涯と生活をキリストの支配下に持ってくるならば、初めて、 救いの確信を持つようになります。これは「最初の確信」です。この確信をしっかり持ち続けるのは心の問題です。イスラエル民族は事情が難しくなった時、神 を試みて、神の道を知らなくなり、ついに、神からはなれ、罪を犯してしまったと言う下る一歩の状態でした。その結果、神の「安息」カナンの地に入らないば かりか。荒野で死んだ。この時の歴史の記録は民数記141-4節とイザヤ書638-10節にあります。イスラエル民族はエジプトを出たい理由は神を礼拝するためでした。出51-3109 詩95は礼拝することが確信を失わない秘訣(ひけつ)で、またもし失ったならば、もう一度見いだすところです。信者が確信を失い始めている時、最初にしな くなるのは礼拝です。ほかの集会に出席し続けるが合同礼拝に出席しない。しかし最初の確信をしっかり持ち続けるなら次の祝福がともなってくるのです。①信仰は神に支えられこと。 エレミア4813.②世に対する神のご計画と目的に重大な役割をすること。エペソ39-12.③天国を報いとして受け継ぐこと。ヘブル1034-36

06910

ハネ第一の手紙2章18-28により「聖霊のそそぎの油にとどまっていない」と題して、信者が信仰生活において、迷わされ、教会を離れ、その信仰を捨てて しまう原因と言うことと、そうならない秘訣を話されました。あるひとは教会の集会に出席して、自分は信者である様子を示していますが、後に、わたくちたち の仲間ではなく、偽り者で、御子と御父を否定して、出て行きます。そしてほかの信者を惑わそうとします。(18,19、22-26)。だまされないように 「注ぎの油(口語訳)にとどまらななければなりません。この油と言う事は旧約聖書から出た表現です。ある物を聖なる物として神様にささげて、また、人を生 別して高い公職に任命する時の行事を指摘しています。参 創28:10-22;出 28:41.新約ではこの油は信者に賜物としてそそがれる聖霊となりま す。使10:45,46。ようするに聖霊のバプテスマです。マルコ1:8.キリスト信者は注ぎの油が自分の内にとどまっているよういに、注ぎの油と言う聖 霊のバプテスマをうけて、そのうちにとどまらなければなりません。それはどうしてできるでしょうか。1.神様との体験を記念して、いつも生かしていること によって。創28章ではヤコブは神と出会い、記念の石柱を立てて、誓いを立て、自分を検診した。31:13によると後に神様に立ち上がらせ、使命を果たす ことにした。2.困難のとき自分を聖霊にゆだね、信頼することによって。ヘブル3:7-11.参 民14:1-4.イスラエル人は指導者のモーセとアーロ ンにつぶやいて、イゼヤ63:8-14によると荒野で聖霊を悩ませた。自分を聖霊にゆだねる方法は礼拝することです。詩95:1-11。ひとは教会を出よ うとする最初にしなくなるのは礼拝です。聖書研究祈祷会に出席するのに。3.聖霊がくちに授けてくださることばを語りだすことによって。2サム23:1- 5.このことばとは神のお約束を告白すること異言で祈ることです。このようにすれば自分の霊に御霊の暖かい火を燃え続けさせるようになり真理にとだまるの です。

0693

コブの手紙1章17,18節により、「神に生まれたもの」と題して話されました。南半球では「父の日」で、今日、多くの子供たちは自分のお父さんを尊敬し てプレゼントをあげたと思います。しがし天のお父様が自分の子供に良いと完全な贈り物を与えてくださいます。最善と最高のプレゼントは霊的な命です。18 節に神様は私たちをお生まれになった」とあります。この「生む」と言う言語は「遺伝子」と言う意味があります。また確かに「生む」と言う意味があると同時 に女が子を落とす時期になった直前におなかが孕んでいる様子と言う意味もあります。この二つをあわせて、親の形質を子に発現させる働きをする物質「遺伝 子」をうけた子供が誕生を通していいよもない将来が与えられています。これがクリスチャンの新生を語っています。神様の性質を得たこどもは「何になるで しょうか」。日本語には転生と言う言葉があります。ちょうど胎内の子供はお産の準備に転がって生命を受けると同じように、人間が罪を悔い改める「向きを変 える」なら、神の御心のままの新生を良いと完全なプレゼントとして与えられます。神から生まれたものの特徴は何でしょうか。ヨハネ第1の手紙によると、

1.違う原理と基準に基づいて生活する。3:9.

2.神を知って、神の家族に属する。4:7.

3.イエスは神である神性を信じる。5:1.

4.信仰生活に対抗することに信仰によって勝つ。5:4.

5.悪魔から守られている。5:18.

こうしてクリスチャンの一人が被造物の初穂であって、自分を神にささげるなら、自分の後に決心者と献身者がついてきます。

06827

先週の礼拝ではヨハネ8:1-11により、「霊的な自由」と題して話しました。イエス様は宮にお教えている最中に売春婦が前に引っ張り出されました。1-11.

エスは事故の陪審に加わられないようにして、彼女を裁くはず立法の役を奪われませんでした。訴えるものはみんな去って後、彼女とひとりになる時彼女にその 悪習慣に満ちた生活から開放され、自由な身になる機会を差し上げられた。11節。その後のお教えの中に「霊的自由」32-36と言うことは鏡像されていま す。その特徴は

1.恥がなく、神の愛と好意を知った生活。10,34節。

2.神様を同行者として知り、一人でいることは決してありません。16,19節。

3.神様を父として知る。立法学者たちはアブラハム、神様にまで父として知って     いると断言しましたがイエスは彼らの父は悪魔ですといわれました。神を父として知ると言うのは家の子供として身分を持つと言うことです。35節

4.毎日御言葉の真理と知恵によって導かれる。29,32,36節。

5.神のご計画と目的を信じて歩む。21,22,56節。

6.天国に迎えられ確信を持つ。51-53節。

々は誰の奴隷になったことはないと出張したがエジエプトとバビロニヤの国、そして今はローマ帝国に支配されていることを便利に忘れていいた。そして実は霊 的に自分の心の中でサタンに束縛されていました。彼らの反応はその場でイエスに石を投げようとし、間もないうちにイエス様を十字架につけて越したのです。 売春婦は新しい生涯に入ったかどうかは聖書では何もいっていません。しかしそれへとの一歩としてイエスを「主」と認めたことがありました。これは確かに霊 的自由を得るに第一歩です。

「先週の礼拝より」

先週の礼拝ではヨハネ8:1-11により、「霊的な自由」と題して話しました。イエス様は宮にお教えている最中に売春婦が前に引っ張り出されました。1-11.

エスは事故の陪審に加わられないようにして、彼女を裁くはず立法の役を奪われませんでした。訴えるものはみんな去って後、彼女とひとりになる時彼女にその 悪習慣に満ちた生活から開放され、自由な身になる機会を差し上げられた。11節。その後のお教えの中に「霊的自由」32-36と言うことは鏡像されていま す。その特徴は

1.恥がなく、神の愛と好意を知った生活。10,34節。

2.神様を同行者として知り、一人でいることは決してありません。16,19節。

3.神様を父として知る。立法学者たちはアブラハム、神様にまで父として知って     いると断言しましたがイエスは彼らの父は悪魔ですといわれました。神を父として知ると言うのは家の子供として身分を持つと言うことです。35節

4.毎日御言葉の真理と知恵によって導かれる。29,32,36節。

5.神のご計画と目的を信じて歩む。21,22,56節。

6.天国に迎えられ確信を持つ。51-53節。

々は誰の奴隷になったことはないと出張したがエジエプトとバビロニヤの国、そして今はローマ帝国に支配されていることを便利に忘れていいた。そして実は霊 的に自分の心の中でサタンに束縛されていました。彼らの反応はその場でイエスに石を投げようとし、間もないうちにイエス様を十字架につけて越したのです。 売春婦は新しい生涯に入ったかどうかは聖書では何もいっていません。しかしそれへとの一歩としてイエスを「主」と認めたことがありました。これは確かに霊 的自由を得るに第一歩です。

06820

先週の礼拝では第一ペテロ4:1-4により、「もうそれで十分です」と題して話しました。3節にペテロが新たにはじめるようにあることを終わりにしなければならないと語っています。以前の生活ぶりはもうこれで十分です。この聖書的原理はイエス様の十字架で見られ( 節)、信者がそれを自分の考えに適用しなければなりません。ほんとうのクリスチャンなら信仰生活の基準を別のところに移して、新しい支配の下で生きるので す。その権威は人間の欲望ではなく、神の御心です(2節)その実際は、かつての生活の基準を絶って、新しい基準、御言葉に記された神の御心に結ばれるよう にすると言うことです。この原理は旧約聖書の人物を通して見られる。ヨシュア記1:1-6ではモーセが死んだ後に、ヨシュアはイスラエル民族の指導を受け 継ぎ、神の祝福を自分だけではなく、民にも継がせました。イセヤ書6:1-9ではウジヤ王が死んだ後に、イゼヤは主の御栄光をを見て、罪を清められ、民に 預言者の務めに召されました。命が始まる前に死がなければなりません。放蕩息子のたとえ話にその男は父と報復な関係に入る前に自分の心の放蕩に対して死ぬ 必要がありました。(ルカ15:17)自分の最大限に達するときそれ以上の無力を神にゆだねるなら神の無限{十分さ} 初めて知るのです。それは信仰成長にかかわることだけではなく、肉体的、精神的、経済的、人間関係のことでもそうです。コロ3:5;コロ4:12;2コリ ン12:9;2テモ3:17.かつても、今も続いているいけないような事情に向かって、「もうそれで十分です」としかって、たくさんの実を実る生活(ヨハ 12:24)をあらたにはじめなさい。

06813

週の礼拝では第一ペテロ1:1-15により、「苦難の目を通してのみ見える祝福」と題して、クリスチャンは信仰生活の中で多くの困難や苦難の中でもがい て、神様には奇跡ができなさることを信じていますがその奇跡がすぐに起こるない場合、神様の愛と力を疑いはじめるのです。この言葉を通して、わたくしたち は、やっとのことではなく、立派に生き残る秘訣を教えています。1”11節に「キリストの苦難とそれに続く栄光」とあります。また12節に旧約の預言者は 「自分たちのためではなく、あなたがた(わたしたち)のため、わたしたちに」語ってています。イエスキリストが身代わりとしてくるしんで下さったと同時に その苦しみを通して模範を残してくださいました。それに聖書的原理が示されています。と言うのは、苦難の後に栄光(祝福)がくるのです。その祝福は苦難に 隠されて、あとに見えるようになるのです。1,2、ペテロ書の中で信者たちは迫害されている事情なのに「苦難」とは3回だけ、「栄光」とは9回でていま す。苦難が信仰をきよめるのです。そして聖い信仰を持って、現実に、後に来る祝福を見るのです。苦難が祝福に変わるまで、1.キリストに対する愛(8節);2.救いの喜び (6,8節);3.自分を霊的に教育して、奉仕をする(13節);従順で、以前と違う生活をつずける(14節)ことを証しつずけるべき。苦難にその完全なはたらきさせ、計り知れない祝福をもたらせましょう。「2コリン4:17,18」

0686

週の礼拝ではヨハネによる福音書14:25-27により「イエスの愛」と題して、聖餐式のメッセージがありました。先月、エステル記の最後のメッセージの 中でモルデカイの偉大さを学びました。かれは「自分全民族(子孫)に平和をかった」とあります。この「平和」とはヘブル後では「シャロム」と言うことばで す。「シャロム」とは心と精神と肉体的平安と言う意味から人間関係の調和と社会的と物理的繁盛と言う意味まで架け橋しています。ところがイエス様が与える 平和と世が与える平和は違います。不義なひとは平和を知らない。ローマ3;11-17、神の御国のものだけだからです。ローマ14:11-19。イエス様 だけが持って来るものです。ルカ19:41-44.平和に役立つものは何でしょうか。

1.十字架を信じる信仰。ヨハ16:33.コロ1:20;ローマ15:13.

2.霊的な基準に生活すること。ローマ8:1-6.。。。に従って、属すると言う言葉を注目。3.神様の支配下に生きること コロ3:15前後の中で脱ぐと着るという言葉を注目。そして十字架の兵士として平和の福音の備えを履く。エペ6;15.多くの信者が実際生活の中で困難な どに渦巻きのように巻き込まれる時に平和を失ってしまいます。上記の霊的原理によって失わないばかりか失っても取り戻されるのです。

06730

メッセージ:先週の礼拝ではエステル記10:1-3により「偉大さの特徴」とだいして、モルデカイの偉大さへと上った段階について学びました。(比較9:4)。

1.小事を大事にすること 2章では、モルデカイは処女エステルを自分の子度として取り入れて、彼女を正義によって育て、彼女を最善と最高の位へと上らせ、そして、アドバイスと注意 を与えました。ルカ19:17の中で忠実な僕は小さいもので忠実だったので大きいものに対して支配する権威が当たられました。

2.真理と信仰生活を妥協しないこと。3章では、モルデカイはハオマンに頭を下げよとはしませんでした。ねぜなら、ユデヤ人たちはその生活が別の法令に基づいているから。ロマ12:2;2コリン6:14-7:1.

3.進行の危機と試練に人間的ではなく、霊的な倫理によって立ち向かうこと

4章ではモルデカイは謙遜と類改めの姿勢をとり、断食と祈りをしました。クリスチャンにとってはすべtの危機は信仰の危機です。ですから霊的な行動をすべきです。1コリン2:12-14.

4.世の中でなすべき責任を忠実に全うすること。2:21-23;7:9によりモルデカイは宮殿で雇われているうちに王の暗殺をさまたげ、王の無事と最善を守った。クリスチャンが福音の真理と自分にある希望を弁明しなければならないのです。ピリ1:7,17;2テモ4:16-18;1ペテ3:15,16.

5.その偉大さをほかの人たちの益ために用いること。10:3.イエス様と使途パウロがそうしました。2コリ8:9;6:10.

偉大さは神の御国の特徴の一つです。マタイ11:11;18:1-4;23:11.

もっとも重要な偉大さはいすキリストを信じて、儀なるものとなることです。マタイ6:33.

06723

先週の礼拝ではエステル記7:1- により「信仰の危機に直面して時にどうしたらよいでしょうかー第二部」と題して、クリスチャン生活は信仰による生活なので、起こってくる災いや問題が信仰 の戦いとなります。ハーマンが信仰に対する危機を象徴しいます。エステルが王にあわれみを願ったようにわたくしたちは神様に助けをお願いすることができま す。信仰の危機を勝利するたまにまず、1.霊的反応をしめす。4章ではエステルと民たちは謙遜なこころ、悔い改め、断食、といのりをしました。2.神様との関係の立場から。。4章では王がエステルに金の借を伸ばしました上でエステルは王のみ前に入ることができた。この借はキリストによる正義を意味しています。ヘブル1:8,9.

3.神様にこの危機は御自分に損害を与える可能性があるということを覚えさせる。7章ではエステルはその原理を用いて、王の助けを願った。2歴代詩32:14-17;イセヤ書37:1-4.4.記されたことばを持って戦う。8章ではハーマンの企みの書簡を取り消すために王の詔書を願った。みことばが与えられるまで危機をのがれなくて、証することはできません。

06716

エステル記3:1-6により

「自分の内にある敵を勝利する」と題して、エステルは王妃となるために準備の清めの期間を終えた後に()すぐに恐ろしい敵が現れました。ユダヤ人たちの敵であるハーマン()がかれらを全滅する工夫を出した() どのようにしてハーマンを取り扱って、ユダヤ人の無事を守るのかということはエステル記の重要なトピックです。わたくしたちは神の国に大いなる働きをする ことと神聖な運命を果たすように決心する時、その目的に対抗するものとの衝突が起こる位置に立つようになります。そして、自分の内に「ハーマン」というも のがあると見出します。ハーマンは神様のご計画を足られない態度を象徴しています。クリスチャンは社会の中に、もう一つの民族で、生活は違う法令を守って います()。もう一つ、ハーマンは信者の内に残っている最も恐ろしい「罪ある性質」を象徴しています。この真理はローマ書6,7,8章の中であげられています。私たちの内に戦っているもう一つの立法(7:17,23)を勝利する秘訣はイエス様と結ばれること(7:1-)と、命の御霊の原理(8:2)ということです。

0679

自分の内にある敵に勝利する

エステル記3:1-6

ステルは王妃となるために準備の清めの期間が追えた後に()すぐに恐ろしい敵が現れました。ユダヤ人たちの敵であるハーマン()がかれらを全滅する工 夫を出した() どのようにしてハーマンを取り扱って、ユデヤ人の無事を守るのかということはエステル記の重要なトピックです。わたくしたちは神の国に 大いなる働きをすることと神聖な運命を果たすように決心する時その目的に対抗するものとの衝突が起こる位置に立つようになります。そして、自分の内に 「ハーマ」というものがあると見出します。ハーマンは神様のご計画を足られない態度を象徴しています。クリスチャンは社会の中に、もう一つの民族で、生活 は違う保冷を守っています()。もう一つ、ハーマンは信者の内に残っている最も恐ろしい「罪ある性質」を象徴しています。この真理はローマ書6,7,8 章の中であげられています。私たちの内に戦っているもう一つの立法(7:17,23)を勝利する秘訣はイエス様と結ばれること(7:1-)と、命の御霊 の原理(8:2)ということです。

0672

支配するための準備 第二部

エステル記2:12-18

ステルは化粧の準備の期間を通らなければならなかった。日本語で「化粧」と訳されたヘブル語の言葉は聖書の中で、洗う、ゆする、こする、磨く、ひらかせ る、とがらせるという意味を持ち、戦いのために武器を用意することを示している。この準備は新約聖書ではクリスチャンが罪からきよめられ、聖なる者とせら れるという経験に当たる。これはキリストとの個人関係と「前回」、教会において兄弟姉妹たちとの交わりを通して「今回」経験できるということ。この「交わ り」の中でキリストの血が私たちを一罪から清めてくださる。エステルが婦人部屋のもっともよい所に移され、管理者ヘガイに化粧「きよめ」の品々と7人侍女 たちが与えられたように、クリスチャンが交わりの環境の中で御霊がきよめのためにキリストのものを受けて、めぐみのわざをしてくださっている。こうしてク リスチャンが神の御国の中で神聖な運命を果たすように用いられる。

06618

信じていることに確信を持って立ち上がりなさい

エステル記1:12

たちは神の国の特別な国民であり、それゆえ神の国のおきてを知りそれを守る必要があります。神の国とこの地上との2つの権威に挟まれたとき、神から出てい ないことには頑固として否定しなければなりません。そのとき私たちが失うものもあったとしても、最善を尽くす神によりそれ以上の大きな恵みが与えられま す。

06611

神の国の中で神聖な運命を果たしなさい

エステル記4:13-17

の御心により、私たちは神の御国のものとして、この地上で生かされている。そのために私たちが果たさなければならないことがあるとすれば、それは人々(家 族)すべてが、神の祝福を受けるために働くことではないか?積極的に喜んで働くなら、すばらしい結果として助けと救いが人々に起こる。沈黙しないで神の言 葉で心を満たそう。

0664

聖霊でバプテスマを授けてくださるイエスを知ること

使徒の働き191-7

ウロがエペソに行き弟子達に会ったとき、まだ彼らは聖霊を受けていなかった。そこで、主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき、彼らに聖霊が臨まれ 異言を語ったり預言をした。聖霊に満たされた時、私達は力を受ける。聖霊の賜物が下ったとき、しるしとして、異言や預言を語る。それは神の御霊によって語 ることであり、御霊が主と私達の間に入りとりなしをしてくださることである。

06528

よい日を送って

エステル記9章1523

の時のユダヤ人たちは圧迫の中にいたが、王の法令が届き光がやってきた。闇は去り、誉、尊敬が与えられ、軽んじられていたのが、重んじられるようになり、 報われた。王の守りがあり素晴らしい日へと変えられた。その日を大いに祝って、年毎の祝日ともした。神の権威が働く時、楽しい日となりその事を証しできる ようになる。神の言葉を受け入れ、キリストとともに生きるといつでも、Good day になる。

06521

北極に訪れたまことのリバイバル(ビデオ鑑賞)

使徒の働き2章1~4節

ナダの北極圏に住む、イヌイットの村々は、アルコールやドラッグ、暴力、性的虐待、家庭やコミュニティーの崩壊、警察も機能しないような無法な状態、若者 の自殺等等の深刻な問題を抱えていた。小さな祈りから始まったが、神様のリバイバルが訪れて、根本的に変えられていった。傷が癒され、家族が変えられ、酒 屋もなくなり、獲れなくなっていたアザラシや、カリブー、ベリーなどが又取れるようになった。ひとつの村から始まったそのリバイバルは、たくさんの村に飛 び火して行き、人々が本当に輝いていた。

06514

ヒーローのお母さん(トニー・ウッズ牧師)

出エジプト記2章1~4節

モー セはイスラエルの繁栄を嫌うパロの命令で、一度捨てられたが、不思議に実の母の手で育てられた。子どもの誕生に関して、人間は、自分たちの都合のいいよう に、さまざまな画策をするが、人は神様の計画によって生まれてくる。それに子どもは成長し、親元を離れていくものだが、独り立ちした時に、神様に従い、創 造主にお任せして生きていくように教えるのが大事である。

0657

火の燃える炉から主の食卓へ

ルカ2413節~35

マオへ下る二人は、心の鈍い人とイエスから非難された。心が鈍いとは、信じないことである。その後共に食卓についてパンを裂かれた時、奇跡(啓示)によっ て彼らはイエスであることがわかった。この真理は天の父から来るもので、正しい認識を与えてくれる。私達は、神の啓示により自分の限界を超えた生き方がで きる。

06430

自由のない中で持つ自由

ダニエル書313-30

からの自由を得て生きる時、縛り上げられ火の中に投げ込まれるような、厳しい神への信頼を試すようなテストがある。3人は、どのような状況の中からでも、 神は救いだせると信じていた。しかしそうでなくても、神は私達が考える以上の偉大な計画を持っておられると知っており、状況に左右されないで、共におられ る方に信頼し、自由を得ていた。

06423

キリストによる自由

使徒の働き121-19

テロが連れて行かれた牢の中は光で満ちていたが、ペテロは寝ていて神の訪れを知らなかった。私達の生活の中でも、思いがけない事が起こるが、それは聖霊の 訪れかもしれない。神の声に応答した時に、つながれていたクサリも落ち、自由への期待を抱く事ができる。自由とは自分勝手に生きるのではなく、神の計画を 生きることである。

06423

キリストによる自由

使徒の働き121-19

テロが連れて行かれた牢の中は光で満ちていたが、ペテロは寝ていて神の訪れを知らなかった。私達の生活の中でも、思いがけない事が起こるが、それは聖霊の 訪れかもしれない。神の声に応答した時に、つながれていたクサリも落ち、自由への期待を抱く事ができる。自由とは自分勝手に生きるのではなく、神の計画を 生きることである。

06416

石を取り除けなさい

ヨハネの福音書1125-46

難の中にあるときに必要なものは、慰めではなく奇跡である。主は私達の名前を呼び、十字架の元で会って下さる。復活の命に預かりたかったら、まず死ななけ ればならない。腐った、汚れた状態をキリストに見てもらう為に、石(意思)を取り除かなければならない。そうしたら新しい命、神の自由を喜ぶ生活へと入れ られていく。

0649

限度を超えている信仰

ヨハネの福音書11: 1-27 

ハネ111-27 に登場する全ての人に信仰に対する限界があった。神の愛を思い違っている為の限界、又神の計画と目的を知らないでいる為の限界、私達 はいかなる状況にあっても主が私達を愛して下さっている事と、辛い経験に胸を痛め泣く事があっても、そこには神の栄光が現され、そして私達の信仰は深めら れるのである。その信仰とはイエス様にのみ注ぐ信仰でなければならない。

0642

魂の回復

詩篇3:1-6

を生き返らせるには、復活の力でないと回復しない。私たちの信仰生活は完全を目指していくものであるが、私たちの大牧者のもとには、神に仕えるための一切 が整えられ、何も心配は要らない。この方は密接な関係をもって伴ってくださり、絶望が希望に変えられてみ業をなすことができる。

06326

イースター 「元通りになること」の意味

マタイの福音書121-13

手のなえた人は、イエスの‘手を伸ばしなさい‘の言葉に片方の手が健全であるようになえた手もそうなると信じて手を伸ばし癒された。手を伸ばすとは信じる ことであり、健全な手はイエスの象徴である。罪で使えなくなっている手も信じれば力を得、命を得、意味あるものとして使えるようになる。

06319

岩淵まこと(with YUMIKO)コンサート

フォトアルバムのページに写真があります。

http://japanese-church.com/photo/photo.htm

06312

救いを受けさせる十字架の言葉

コリント人への手紙第一1: 17-25

十字架につけられたキリストの死は、復活によって有効となり、私たちは神の選びによって救われた。この十字架と復活については、今日から4回にわたって取り上げる予定。

0635

福音のために生きる

ローマ人への手紙1: 1-17

福音と信仰は同意語である。わたしたちはイエス・キリストが誰であるかを知り、その知識の上に立って生活していく。クリスチャンとは、神の呼びかけに応答 し、十字架を通って義人とせられた者たちで、神の恵みを受け、地上での務め(伝道)をして天国に入るのである。

06226

神の慈愛(信徒LPさんのあかし)

ローマ人への手紙2: 1-10

信徒のあかしのページに掲載されています。

http://japanese-church.com/testimony/testimony.htm

06219

キリストの十字架による救い

ローマ人への手紙5: 1-10

々は不信仰、不安、恐れに立脚しているが、私たちは中保者であるイエスキリストにより神の恵みに立っている。恵とは神の栄光を見ることである。だからどん な事でも忍耐できる。忍耐の経験を積むことで信仰が強くなり、希望を持つことができる。痛みのところには聖霊様が愛を注いでくださる。

06212

真理による一致

ヨハネの福音書1714-23

神が三位一体であるように、また私たちの内におられる神により、きよめにより一致していくことができる。お互いの欠点を見ないようにし、聖書の真理に合致しているか自分自身を吟味し、祈りによって矯正していく。

0625

主の体をわきまえる

コリント人への手紙第一1122-32

わきまえるとは、①認識すること、②物事をはっきりと理解し、正しく判断することであり、そうした思いを持って聖餐に預かるべきである。

06129

あなたの神はどこにいるのですか

コリント人への手紙第二4: 1-10

どのような状況の中にあっても、神の希望に生き、信頼し、従順するあなたの中に、人々は神の存在を見る。

06122

人との親密な関係を通して神との関係を深める

列王記下2:1-15

①お互いに神との関わりを深めつつ兄弟関係を深めた預言者のエリヤと、その僕エリシャについて、②助け合い、祈りあい、励みあう事、受けるより与える事の大切さ。

06115

オルパの心、ルツの心

ルツ記1:1-18

将来に向かって行こうとすると、過去に戻ろうと言う声がする。オルパは過去に戻り、ルツは、ナオミの神を我が神とし未来思考で生き、歴史に残る人物となった。

0618

愛のうちに信仰の一致に達する

エペソ人への手紙4:1-16

一致の行動とは、お互いを認め合う事である。賜物を持ってお互いに仕え合い、証し、祈り、譲り合い、心を開いて愛し合う。そこに教会の一致、御霊の一致が与えられる。

0611

神との契約に基づいた信仰生活

詩篇116:1-19

061225

本当のイエス様は立ってください

ルカの福音書2:1-20

051218

イエス様はご在宅でしょうか

マタイの福音書2:1-15